金正恩(キム・ジョンウン)北朝鮮国務委員長とドナルド・トランプ米大統領の「ハノイ首脳会談」が失敗に終わった。厳粛な署名も派手な記者会見もなかった。直前まで、多かれ少なかれ成果を予想した人々をあざ笑うような“大反転”だった。今この場では合意できないということが確認された瞬間、二人の顔にかすめた表情が気になる。別れ際には笑っていたとしても、俗に言う笑えない話だっただろう。
ハノイの失敗以後、いわゆるトップダウン方式の朝米首脳会談に対する懐疑論が頭をもたげている。最高指導者の決断に頼る首脳会談の危険性が、ハノイで如実に立証されたということだ。事実、最高指導者が会って争えば対策はない。だから実務者が激烈に協議して、最高指導者は優雅に署名する首脳会談の“成功方程式”に戻ろうという話が続いている。
しかし、首脳会談は本来危険なものだ。首脳会談(サミット)という話を外交用語に引き込んだ人はウィンストン・チャーチルだ。彼は冷戦が真っ只中の1950年2月、「ソ連最高位層とのもう一つの会談」を提案した。そしてそれを“頂上(summit)での会談”と呼んだ。敵対国の最高指導者との会談を“山頂での出会い”と婉曲に表現した。彼は「頂上での会談により、さらに事態が悪化することがありうるという言葉は理解し難い」と強弁した。
山頂は登ることも大変だが、降りることも難しい。羽振りをきかせて征服の喜びを享受することもあるが、足を踏みはずして墜落の苦痛を味わうこともある。頂上では乾坤一擲の勝負が繰り広げられるほかはない。偉大だが危険でもある外交形式だ。チャーチルは当時、世界を席巻していたエベレスト山クライミングの熱気から頂上での会談というアイディアを得たという。
こうした首脳会談の妙味を最もよく表現したのは金委員長だ。彼は平壌からハノイの手前まで66時間を汽車に乗って走って行った。中国大陸の山と川を走破した。エベレスト山クライミングを連想させる旅程だった。金委員長が、トランプ大統領に会った席で「ここハノイまで歩いてきた。多くの苦悩と努力、そして忍耐が必要だった」と話したのは、比喩ではなく描写だ。彼はシンガポールでの初の朝米首脳会談の時も「誤った偏見と慣行が、時には目と耳を覆っていたが、あらゆる事に勝ち抜いてこの場まで来た」と話した。
金委員長とトランプ大統領は別れ際に次の出会いを約束しなかった。トランプ大統領も合意が不発に終わった直後に開かれた記者会見で「次の会談がいつ頃開かれるか」という質問に「早く開かれる事もありうるし、長い間開かれないこともありうる」と答えた。ハノイ以後、首脳会談に向けたまた別の苦悩と努力、忍耐を予告している。
1961年、ウィーンで開かれた米ソ首脳会談は、外交史で最悪の失敗の一つに挙げられる。米国の野心に充ちた大統領ジョン・F・ケネディは、ソ連の好戦的な最高指導者ニキータ・フルシチョフとベルリン封鎖危機と核戦争の恐怖を抱いて会った。ケネディは会談直前「崖で会うより頂上で会う方がはるかに良い」と豪語したが、会談場の雰囲気は冷やかだった。ケネディは会談の間中「共産主義は資本主義に勝利するだろう」というフルシチョフの理念攻勢に苦しめられた。ケネディはそうしたフルシチョフに絶望を感じた。
ウィーンの失敗以後、外交官たちは首脳会談の有用性に疑問を抱いた。深刻な意見の差異がある状態で開かれる首脳会談の危険性を、新たに悟ったのだ。だが、米国がベトナム戦争の泥沼にはまり、ソ連も核兵器競争に限界を感じ、首脳会談の必要性が提起され始めた。キューバミサイル危機まで体験した米国とソ連は、結局1972年にモスクワで再会し、戦略兵器制限協定(SALT)に署名する。米ソ冷戦終息の転換点になった1985年ジュネーブ首脳会談を予告する大進展だった。
首脳会談は一気に成功しない。米国とソ連の冷戦は、4回の決定的な首脳会談を通じて徐々に解消された。1945年ヤルタを皮切りに1961年ウィーン、1972年モスクワ、1985年ジュネーブに至るまで40年かかった。その過程で、失敗と成功が二転三転した。首脳会談の危険性を克服できるのは、連続性だけだ。