5・18光州(クァンジュ)民主化運動で戒厳軍に性的暴行を受けた後、子どもを出産した被害女性の事例が初めて確認された。この女性は政府共同調査団が31日に発表した5・18性暴力被害事例の17件には含まれていなかった。5・18特別法によって発足する真相究明委員会が、5・18性暴力犯罪の真相を徹底的に究明すべきだという声が高まっている。
■性的暴行被害後に出産まで
31日にハンギョレが入手した5・18民主化運動補償審議資料には、5・18民主化運動当時、戒厳軍の将校に性的暴行を受けて出産したというAさん(1953年生まれ)の被害供述が書かれている。供述書によると、1980年5月18日夜7時から8時ごろ、Aさんが家政婦として働いていた光州市東区大仁洞(テインドン)のある家に軍人の集団が押し入った。Aさんが働いていた家は、5月18日当日、空輸特殊部隊の軍人が宿舎として使っていた市外バス共用ターミナルの近くにあった。Aさんは供述調書に「5・18当時、突然門を開けろと足蹴りをするので門を開けたところ、軍人たちがいきなり入ってきて、奥の間に連れていかれた」と供述した。このうち軍人1人が帯剣のついた銃を突きつけて脅迫し、恐怖に怯えていたAさんを暴行した。
Aさんはその後、妊娠した事実を知った。Aさんは性暴行犯が“尉官級の将校”だったと記憶していた。Aさんは「妊娠3~4カ月になった頃お腹が大きくなってきたので雇い主の姉さんに聞かれたが、話さずにいたところ時期を逃してしまった」と供述した。Aさんは1981年1月21日に男児を出産した。しかし、生活が苦しく子どもを育てることができなかった。やむを得ずAさんは2月21日頃、布にくるんだ子どもを名前を書いた紙きれと一緒に東区池元洞(チウォンドン)の大韓福祉会の正門前に置いてきた。5・18補償審議委員会は1998年に大韓福祉会に問い合わせた結果、紙に名前が書かれた子どもを預かったという事実が判明した。5・18補償を受けたAさんは、2008年に死亡した。
Aさんは5・18民主化運動時に性暴力被害を被ったが、審議の過程で「負傷者」に分類された。5・18民主化運動補償体系の分類には死亡・負傷・行方不明の3つの被害類型があるだけで、性暴力被害者は別途の規定がなかったからだ。「5・18戒厳軍などによる性暴力共同調査団」(以下、共同調査団)がこの日明らかにした5・18性的暴行犯罪17件(重複を除く)の被害者のうちの4人も、補償申請をしたが認められなかった。5・18性暴力被害者のうち、補償を受けた2人は精神疾患の病歴が認定されて可能になった。共同調査団のパク・ウンジョン調査官は「性暴力は目撃者がおらず、病院に行ける状況でもないため、被害を立証できる資料がなく、新しい基準が設けられなければならない」と話した。
■30年間精神病棟で生活
この日合同調査団が公開した被害者の中には、30年間精神病棟で暮らしているBさん(1958年生まれ)もいる。調査団が文献・資料分析を通じて探し出したBさんは、1980年5月20日未明、姉の家に泊まって自宅に帰る途中、武装した空輸部隊員に捕まりむごい目に遭った。目撃者のJさんは「当時、軍人2人がBさんを隣の家の門の中に押し入れながら『この娘を朝になったら家に帰せ』と言って行ってしまった。ぶるぶる震えていて、私が家に連れて行った」と供述した。
Bさんはその後、精神異常の症状を見せた。1982年7月、国立羅州精神病院に入院し、3カ月後に一時帰宅したがその後家出をして、1983年11月に光州龍山洞(ヨンサンドン)のウンソン院で生活した。そこで1年ほど療養して家に帰ってきたBさんは、また家を出て1986年に大邱市立希望院で発見された。その後、Bさんは1988年4月に国立羅州精神病院に入院した後、今もそこで暮らしている。
■5・18で傷を負い焼身自殺
今回の調査で被害者に分類されたもう一人の女性も5・18の傷によって人生が根こそぎもぎ取られた。Cさん(1962年生まれ)は1986年12月3日、全羅南道のある小都市の家の前で体にガソリンを撒いて火をつけた。家族が救急車を呼んで光州の病院に運んだが、気道が塞がりあっけなく亡くなった。25歳の時だった。
1980年5月、女子高3年生だったCさんは、故郷を離れ光州市南区白雲洞(ペグンドン)で実兄と二人で暮らしていた。Cさんは5月19日、市内で戒厳軍に捕まり、トラックで森の中に連れて行かれた。助けを乞うCさんに軍人らは「お前は連絡軍だろう」と脅して輪姦した。兵隊たちはCさんを車に乗せ、市の郊外の道ばたに置き捨てて逃げた。
Cさんはその後、光州のある大学に入学したが、1983年夏に故郷の実家に来て急に倒れた。「助けて、助けて、私は何もしていない、家に帰して」。Cさんは手で地面をほじくり返したかと思えば手をすり合わせて乞う仕草をした。1985年7月、国立精神病院に入院したCさんは、文章完成法検査の用紙に肉筆で願いを残した。「私が本当に幸せになるには?」という項目にCさんは「愛する人と結婚し、子どもを産んで暮らすこと」と力を込めて書いた。