ことしは作曲家ユン・イサンの生誕100周年である。ドイツでは去る9月に記念コンサートやシンポジウムが行われた。韓国国内ではどうだったのだろうか、気にかかる。日本では一昨日(11月18日)、東京大学長木誠司(ちょうきせいじ)教授の主管で記念シンポジウムが開かれ、私も招聘講演者として参加した。シンポジウムは長時間にわたって真摯な研究発表と討議があり、その上、若い演奏者による室内楽4曲の演奏付きという意味深い内容であった。それにしても、ただでさえ少ない聴衆の中に、私の見たところ在日同胞の参加者はいなかったようで、そのことも残念であった。というより、これでよいのかという痛憤の思いすら私にはあった。
ユン・イサンが生を享けたのは1917年。1995年に客地ベルリンで世を去るまでの78年の生涯のうち、前半3分の1は植民地時代、後半3分の2は「分断時代」であった。ユン・イサンはその社会生活においても芸術においても、根源的に「分断」を拒否する生き方を貫いた。それは彼の芸術の本質であった。「分断時代」はまだ終わっていない。それどころか、一触即発、第二次朝鮮戦争の危機すら迫っている。まだ私たちがユン・イサンを忘れてよい時ではない。
1951年生まれの私は、日本で接した東ベルリン事件(1967年)の報道によってユン・イサンという存在を知った。その時私はまだ高校生で、事件報道を遠い出来事のように漠然と聞いていただけだ。しかし、そのわずか3,4年後、韓国に母国留学中だった私の兄2人(徐勝、徐俊植)が「学園浸透スパイ団」という嫌疑で逮捕され、ユン・イサンの運命は突如として私にとって現実味を帯びたものになった。
1981年5月13日、東京で、『傷ついた龍』(ルィーゼ・リンザーとの対談)日本語版の出版記念会が開かれた。光州5・18からちょうど1年後、私の兄たちはまだ獄中にいた。まさしく暗黒時代であった。その私に同情したのだろう、社会党土井たか子委員長の秘書五島昌子(ごとう・まさこ)さんが私をその会に呼んで下さった。五島さんは日本における韓国民主化連帯運動に重要な役割を果たした方であり、私の兄たちの救援運動にも多大な貢献をして下さった。その時初めて間近にユン先生のお顔を見たが、緊張して何も言えなかった。
そのように出遭った『傷ついた龍』は、私の人生にとって決定的に重要な書物になった。あれから40年近い歳月が過ぎ去った現在も、この思いは少しも変わらない。同書は、ユン先生のお母様が先生を懐妊中にみた胎夢の話から始まる。智異山の上空を龍が飛んでいる夢。しかし、その龍は傷を負っていて、上空高く昇ろうとしてもがいてもそれが果たせない。ああ、なんと雄渾で、神話的なイメージであることか。しかも、その龍が傷ついているとは、なんと予言的なことか。
そのイメージは、ユン先生が東ベルリン事件の投獄生活から解放されて10年近くたってから、チェロ協奏曲(1975/76)となって結実した。
「あの終末部でのオクターヴの跳躍を思い出して下さい。この跳躍は、自由、純粋、絶対への希求と願いを意味しています。オーケストラではオーボエが嬰ト音からイ音まで滑行音(グリッサンド)でのぼり、このイ音はトランペットによってひきつがれます。チェロはそこまで到達しようとしますが、うまくいきません。チェロはグリッサンドで嬰ト音から四分の一音だけ高いところまで昇って来ますが、しかしそれ以上には上がれません」
ある芸術家が「夢が現実を模倣するのではない、現実が夢を模倣するのだ」と語ったそうだ。まさにユン・イサンの生涯は、この夢のとおり、絶対的な解放の歓喜にわずか4分の1音届かないという経験の連続であった。しかも、それは彼個人の挫折の歴史というより、わが民族そのものの経験を象徴している。それだけではない。その4分の1音の僅かな空隙が生み出す音のうなりが、比類のない「美」を生み出しているのである。驚くべきことではないか。
1983年の晩秋、初めて西ベルリンのユン先生宅を訪問した。李スジャ夫人は、光州事件(1980)の際、「先生が報道をテレビで見ながら、どれだけ涙を流しておられたことか」と語った。「泣きながら、作曲されたのです」と。
1984年、日本の群馬県で開かれた草津国際アカデミーの招待作曲家はユン先生であった。同年8月24日に「尹伊桑の夕べ」コンサートがあり、私も京都から駆け付けた。ユン作品をまとめて聴くことのできるコンサートとして日本最初のものだ。当日演奏された5曲のうち、最初のものは「イマージュ―フルート、オーボエ、ヴァイオリン、チェロのための」1968、北を訪れて実際に見た高句麗古墳壁画から霊感を得た作品である。古墳壁画をみるために危険を冒して北に行ってきたという先生の説明を真に理解する人は多くないだろう。そういう人にはぜひこの音楽を聴いてほしい。運が良ければ、自分自身が古い王墓の内部に身を置いているような、神秘的な感覚に襲われるであろう。この作品をつくることは、先生にとって、何ものにも代えがたい価値があったのである。
5曲の最後は「泣きながら作曲した」という「夜よ、ひらけ(Teile Dich Nacht)―ソプラノと室内楽のための」1980であった。ネリー・ザックスの詩を用いたものだ。 ザックスはナチスの迫害をのがれてスウェーデンに亡命したユダヤ系女性詩人である。被害妄想と精神錯乱に苦しみながら孤独に世を去った。その詩句の最後の言葉。
「ひらけ夜よ/お前の双の翼は照らされおののく
私が行って/血にまみれた夕べを/取り戻してこよう 」
この言葉がきわめて高音のソプラノによって、悲鳴のように、また囁きか吐息のように歌われ、虚空に吸い込まれてゆく。何と悲痛で、何と美しい声。この心象は、残忍で冷血な政治権力によって迫害され殺戮された人々のそれであり、おそらくユン先生自身の心象に痛いほど共鳴したのであろう。私もまた、激しく心を揺さぶられた。
コンサートのあと、私はホテルの部屋にユン先生ご夫妻を訪ねた。ユン・イサンという芸術家は東洋と西洋、伝統と近代、政治と芸術といった価値の対立と相克のただ中に身を置きながら、東洋的伝統に自閉するのでなく、西洋的近代に飛躍するのでなく、政治か芸術かを二者択一するのでもなく、両者が相克する苦悩の中から新しい普遍的価値を創造しようとしている。そういう芸術家の謦咳に接したいという一心だった。
ユン先生はとても疲れた様子で、言葉少なだった。「いま交響曲の作曲に取り組んでいる。すでに頭の中には何曲かの交響曲があるのだが、私は心臓が悪いので、いつまで時間があるかわからない」そんなことを言われた。私は先生の貴重な時間を自分が奪っているという申し訳ない思いに襲われ、早々に辞去した。そのことから数週間たち、「朝日ジャーナル」(1984年9月21日号)という雑誌にユン先生のインタビュー記事が載った。そこには音楽の話だけでなく、相当なスペースを取って私の兄など社会安全法によって拘束されているすべての政治犯の釈放を要求する言葉が並んでいた。解放直後に「保導連盟」によって無惨に「消された」犠牲者たちへの言及もあった。全政治犯の釈放が実現するまで韓国政府が要請する帰国は拒否する、と言明していた。
私はふたたび激しく感動した。先生が私の兄弟など他の政治犯に対して配慮を見せてくれたことに対してだけではない。そのインタビューは、あの疲れ果てた体で、限られた時間の1分1秒でも作曲のために使いたいという心境の時に行われたものだ。しかも、韓国政府の不興を買って、帰郷の望みをさらに遠ざけるかもしれないものだった。それでも、先生は自分にできる(自分にしかできない)最大の努力を、韓国社会を(そして人類社会を)少しでも良くするという目的のために払われたのである。
ミュンヘン・オリンピックの文化行事として委嘱されたオペラ「沈清シム・チョン」1971/72が成功した後、韓国政府はユン先生を招請した。それは東ベルリン事件以後初めての帰郷と名誉回復の機会であった。しかし、まさにこの時、1973年8月「金大中拉致事件」が起こり、ユン先生は帰国を断念した。
1988年に盧泰愚政権が登場した時、ユン先生は休戦線上で南北共同音楽祭を開催することを提唱した。そのような前例のない提案は「分断を超えた存在」である彼だからこそ可能だった。しかし、この音楽祭は結局、韓国政府の反対によって雲散霧消してしまった。
金泳三文民政権の誕生を前後して、韓国内で長く続いたユン・イサン音楽へのタブー視が緩和され、1994年9月、「尹伊桑音楽祭」の企画が進められた。しかし、ユン先生は韓国政府が反国家団体と規定した「汎民連」の海外本部長という地位にあったため、その帰国は政治的意味を帯びざるをえなかった。「過去の行動に反省する点もあった」「今後一切、北とは絶縁する」と表明せよという韓国政府側の要求を拒否して、ユン先生はまたも帰国を断念した。その後、ユン先生は米国で南北の音楽家を集めて音楽祭を開く計画を進めたが、北側音楽家の参加がとりやめになり、音楽祭そのものも実現できなかった。
ユン先生の人生最後の作品は交響詩「焔に包まれた天使たち」(1994)である。ノ・テウ政権下で弾圧と不正に抗議して次々に焼身自殺した若者たちを記念する音楽である。1995年12月20日、ユン・イサンの遺体はベルリンの墓地に葬られた。まさしく、解放を渇望しながら、そこにわずかに届かない、傷ついた龍の生涯であった、といえよう。
ユン先生の後頭部に、ふだんは髪の毛で隠れているが、大きな蜘蛛か蟹がべったりと貼りついたような傷痕がある。1967年7月、東ベルリン事件で拘束中に獄中で自殺を試み、拷問室にあった重い金属製の灰皿で自分の後頭部を打ち砕こうとした傷痕である。拷問室での屈辱、苦痛、絶望がどれほどのものであったか。
この偉大な芸術家は、自民族の国家権力によって抹殺されていたかもしれない。その想いにあらためて慄然とする。もしそうなっていたら、彼の作品の大半もまた、生まれないままに抹殺されていたのである。しかし、ユン先生は、その深淵からたんに生還しただけでなく、真に驚異的なことに、いっそう巨大な存在となって再生したのである。いま、韓国で生誕100周年がどのように語られているか、私にはよくわからないが、少なくとも、このような経緯を深い痛みと羞恥をもって記憶しなければならないはずだ。
最近知ったところでは、朴クネ政権時代のいわゆる「ブラックリスト」に「ユン・イサン平和財団」までが挙げられていたとのことである。これをリストアップした者たちは、彼の音楽を一度でも真摯に聴いたことがあるのだろうか。いったいいつになったら、このような恥ずべき愚かさから抜け出すことができるのか。
韓国語原文入力:2017-12-14 17:58