在韓米軍基地村女性、言い換えれば米軍慰安婦問題が韓国のマスコミに本格的にスポットを当てられたのは「キム・ジョンジャ、私は誰か」(2014年7月5日付ハンギョレ 1面)という記事が最初だった。それから1年余り後、東京で開かれた韓日言論人の集いに参加したことがある。当時両国関係は悪化の一途を辿っていた。
半日討論して、あまりに異なる両国の人々の考えを貫く共通基盤はないだろうかと考えた。ふと米軍慰安婦のことが頭をよぎった。国家が集娼村を事実上管理し、性病検査を実施して強制的に隔離して、「米軍によくすれば韓国がよくなる」という精神教育までさせた。
当時私は、韓国では米軍慰安婦にスポットを当てているのに、先進国である日本がはるかに深刻な日本軍慰安婦に目を閉ざすのは誤りだと主張した。米軍慰安婦が戦後のことであり、日本軍慰安婦は戦時に遠い異国の地でそれも植民地の女性が帝国の軍隊に踏みにじられた。同じ人権蹂躪とは言っても、その強度には差が大きい。
韓日問題は民族の観点とは別個に、人類の普遍的価値という共通基準で見れば輪郭が明確になる。例えば、『帝国の慰安婦』の著者朴裕河(パク・ユハ)を検察が起訴すると、韓国国内で反対声明を出したのはその主張に同意するからではなく、学問の自由のためだった。産経新聞ソウル支局長の起訴についてもやはり、言論の自由の観点から批判的だった。
韓国の内部問題をヒューマニズムの尺度できちんと見ることができるならば、外側に地平を拡げることができる。私たちが日本軍「慰安婦」被害者と連帯して共に戦うのは、日本に支配された民族的鬱憤を晴らすためではなく、彼女たちの踏みにじられた魂を慰労し、その辛酸たる苦痛に対する補償を受けるようにするためだ。10年前、米下院が慰安婦決議案を初めて採択したのは、そのヒューマニズム的響きに世界が共感したためだ。
韓日関係は悪循環に陥っているが、そうであるほど普遍的基準に基づかなければならない。かつてのアイルランドの頻繁な暴力事態に見るように、隣り合った両国が植民支配-被支配であった場合、関係は険悪にならざるをえない。合理的に見るより民族の観点が優先する。慰安婦問題は安倍の逸脱的な逆回りで大幅に悪化したし、李明博(イ・ミョンバク)・朴槿恵(パク・クネ)政府の没歴史的対応で道に迷った。解決までに時間がかかっても、普遍的価値に立脚し不変の主張と要求を続けるしか道はない。
克日(日本を克服すること)は被害意識に捕われて日本に常に何か出せと脅かしていても実現しない。そのような形で毎度接近すれば、韓国は常に日本に対して被害者であり抑鬱された民族になる。
克日の次元で少女像問題にももう少し幅広く接近すれば良い。日本大使館前の少女像を平安なところにきちんとむかえる日が来ることを望む。光化門(クァンファムン)広場に迎えても良いし、慰安婦展示館を作って迎えることもできる。もちろん、そうなるためには日本の誠意ある謝罪と賠償が必要だ。その過程は迂余曲折がありえるが、そうなるように両国が知恵を集めなければならない。
今年初め、裁判所は米軍慰安婦訴訟で国家の強制隔離を不法と判決した。彼女たちの人権侵害を調査する法案も国会で発議された。来年にはベトナム戦争当時韓国軍により犠牲になった民間人問題を扱う市民法廷が開かれる。韓国社会がこれらの問題に熱心であるほど、日本軍慰安婦問題の解決を要求する声にも説得力が増す。
光復(解放)72周年をむかえ、あらためて克日を考える。私たちが一歩後退することによって本当に勝利する、普遍性と客観性を取得することによって、精神的にも物質的にも優位に立つ民族として新たに出ることができるのではないだろうか。