本文に移動

[コラム] 抗日義兵長 洪範図、消された将軍の伝説

登録:2015-07-29 23:43 修正:2015-07-30 08:07
イラストレーション =イリムニキ//ハンギョレ新聞社

 作男出身なので主流から無視され、ソ連共産党に加入したという理由で消された洪範図(ホン・ボムド)。 彼はカザフの荒れ地で掘っ立て小屋生活をしていたが、1938年クジルオルダに移住して病院の警備や劇場の守衛をして晩年を送った。 1943年10月、友人たちを呼び、豚を屠って食べさせた。 それが最後だった。

 最近、官辺と保守マスコミが熱を上げている映画『延坪(ヨンピョン)海戦』の宣伝を見ていると 、洪範図の戦いがより無念に思われる。 クジルオルダの中央公園墓地に埋葬された彼は、亡くなっても未だに故国に帰れない。

 2年前、汝千(ヨチョン)・洪範図将軍記念事業会(理事長イ・ジョンチャン)は、カザフスタンのクジルオルダで汝千70周忌記念式を主管した。 現地の韓人は公式行事の後、お返しとして演劇『洪範図将軍』を公演した。 俳優たちの咸境道(ハムギョンド)なまりは流暢で、劇中の義兵の心意気と夢は涙ぐましかった。 観客は105年前の咸境道三水甲山(サムスカプサン)、義兵の戦場へと引き込まれていった。

 「今はこうして石を枕に風を布団に夜を過ごすけれども、万民の流した涙が春の洪水となって下る時には、行く手を阻んでいた薮は海の底深く沈められるでしょう。 お母さんは裸足で走ってきて私たちを抱きしめ涙をこぼすでしょう」 「イルナムよ、(ずっと後の日に) 子供たちがお前のところに駆けて来てひざをついて『義兵に行かれたんでしょう?』 『義兵大将の洪範図を知ってますか?』と口々に尋ねたら、お前は獅子のように頭を高くあげて話して聞かせるでしょう。そしてその話は彼らの歌となって末永く鳴り響くでしょう」

 記念事業会は先月7日、再び中国図門市水南村で鳳梧洞(ポンオドン)戦闘95周年記念式を行ない戦跡地を訪ねた。 「豆満江を渡って来た日本軍追撃隊は後安山(フアンサン)を経て、あそこの高麗嶺の山すそを回ってこちらにやって来ます。 彼らは村を廃墟にした後、あそこのチャンダリ峠を越えて鳳梧洞に向かいます」

 キム・チョルス延辺大教授が南鳳梧洞から指差す所は山と丘陵、森と草原だけであった。 クジルオルダで汝千の生涯と闘いを経験した人々は目を輝かせて想像の羽を広げるようだったが、漠然と「洪範図」の三文字しか知らない人々にとっては、山河はただ荒涼として寂しいばかりだった。

 鳳梧の谷も同じだった。入り口部分は巨大なダムで遮られており、鳳梧洞は完全に水没していた。 「ここからさらに10キロメートルほど行けば戦闘現場です。 鳳梧の谷は下・中・上の村になっています。 日本軍はあそこの右側の稜線を越えて鳳梧の谷に進入します」。 水南村の村長は熱心に説明したが、見えるのは果てしなく長い湖のさざなみだけだった。 そのように鳳梧洞戦闘の記憶はきれいに消されていた。

 洪範図。

 生まれて7日目に母親が亡くなり、父親が乳をもらい歩いて育てた子。 9歳の時には父親にも死なれ、少年時代から作男暮らしをしたという。 平壌(ピョンヤン)の親軍西營にラッパ手として入隊し名射手として名を馳せたが、乱暴な上官を殴りつけて脱営し、製紙工場に入っても暴力的な社長を殴りつけ、金剛山神渓寺に作男として入っては、ある尼僧と出会って愛を結んだ熱い血の青年。 ならず者に会って妻と生別れになり、「乙巳義兵」になって日本軍警、親日附逆派を処断する中で5年余ぶりに妻と再会したが、1907年の丁未事変で本格化した組織的抗日闘争の中で妻と息子を失った不幸な男。

 シン・ドルソク将軍と並んでほとんど唯一の平民出身義兵長。1907年11月に日本軍30人余を射殺した厚峙嶺(フチリョン)戦闘から1年余、60回を超える交戦をしながらただの一度も敗れた事がない義兵史の伝説。 「空飛ぶ洪範図」と言って日本軍すら畏敬したが、今この国の義兵史からはほとんど消されてしまった人物。

 到底彼を捕らえることも射殺することもできなかった日本軍は、妻と長男を捕まえて帰順工作を試みたが、(投降勧告文を書けという要求に)「滅び行く国を立て直さんとする英雄豪傑が、女房がそんな愚かな文を書いたからとて屈服すると本当に思うのか!」と、逆に怒鳴り返して拷問され、その後遺症で獄死した妻。 それから1カ月後の1908年6月、咸興(ハムン)守備隊との交戦中に戦死した長男ヤンスン。 そんな中でも、武装闘争の意志をさらに固めた人。

 日本軍情報機関の評価はこうだった。 「洪範図の性格は豪傑の気風があって、配下の者たちから神様のように崇拝され」ていた。 その理由は「人となりが素朴、誠実、清廉で名誉を貪らず、大義のためには他の人に身を屈めることを憚らなかった」ためであった (延辺の史学者ソン・ウヘ)。 彼は「常に階級章もない兵卒のような格好をしていたし、『倭奴ではなく仲間を苦しめるのに使われる』指揮刀や拳銃の代わりに、倭奴を懲らしめるための長銃二丁を持って歩いた」(汝千の参謀だったホン・サンピョ)。

 鳳梧洞の戦闘は 1920年6月4日未明に洪範図部隊が豆満江を越え、咸境北道鐘城郡江陽洞の日本憲兵巡察隊を破壊して始まった。 日本軍は南陽守備隊所属の1個中隊と憲兵警察中隊で越境追撃隊を編成し、追撃中に三屯子(サムドゥンジャ)で待ち伏せしていた洪範図部隊により殲滅される。 咸境道羅南(ナナム)の日本軍19師団は大規模討伐隊を編成して、根拠地破壊作戦に着手した。

 鳳梧の谷の上洞は笠を伏せたような地形。 汝千は四方の山すそに部隊を待ち伏せさせ、イ・ファイル部隊に討伐隊を誘引させた。 計画通り日本軍が笠の中に入って来るや、四方から銃撃を浴びせ、日本軍は3時間で死者157人を含め死傷者500人余りを残して琵琶洞(ピパドン)方面に逃走。 壬辰戦争の時、李舜臣(イ・スンシン)と権慄(クォン・ユル)将軍がおさめた大勝利以来、日本の正規軍を相手におさめた初の大勝利であった。 4カ月後の青山里(チョンサンニ)での大勝利の予告篇でもあった。

 青山里戦闘について日本の情報機関の報告はこう書いている。「10月下旬、二道溝漁郎村(オランチョン)及び蜂密溝(ポンミルグ)方面で日本軍隊に頑強に抵抗した主力部隊は、洪範図が率いる部隊であった」。 パク・チャンウク延辺大教授の評価はこうだ。「金佐鎭(キム・ジャジン)部隊は白雲坪(ペグンピョン)戦闘、泉水坪(チョンスピョン)戦闘及び漁郎村)戦闘の他には特別な活躍がなかった。 一方、洪範図連合部隊は、完楼溝(ワンヌグ)、テグムチャン、天宝山(チョンボサン)、メンゲコル、古洞河(コドンハ)の戦闘を主導した。 敵方は37旅団長東少将が直接指揮する歩兵主力と飯塚部隊、27連隊の主力を動員して洪範図部隊を攻略した」。 それもそのはずで「金佐鎭の北路軍政署は戦力は強かったが、数百里を強行軍して青山里に到着したばかりだったし、食糧難に喘いでいた。一方、洪範図部隊は9月下旬、一番先に到着して戦闘に備えた」(チャン・セユン博士)。

 青山里戦跡地も、その跡すら見つけるのが難しかった。 チャン博士がいくら身振り手振りで説明しても、ただ山と丘陵だけであった。 その時のその喊声、彼らが流した血、涙の望郷歌はどこにも感じることができなかった。 青山村の前の小山の巨大な記念碑だけが、寂しく立っているばかりだ。

 そのようにして葬られていくことより更に残念なのは、汝千の祖国で行われた抹消と歪曲。 かつて金佐鎮の参謀であり李承晩(イ・スンマン)政権の国務総理であった李範錫(イ・ボムソク)は、著書『ウドゥンブル』で汝千を一匹狼的な人物あるいは逃亡者として決めつけた。 日本軍の捕獲した武器は全て洪範図部隊のものであると記録したりもした。 それがこの地の定説となった。

 作男出身であるために主流から無視され、青山里戦闘大勝利の後にソ連共産党に加入したという理由で消された汝千。 しかし彼が1922年にソ連共産党に入党したのは、当時赤軍だけが日帝に対坑し、一緒に闘い軍需品を支援できると信じたからだった。 実際、当時はそうだった。 しかしロシア革命が終わると赤軍は朝鮮独立軍を捨てた。 「赤い党によって解散させられた数万の韓人兵士たちは乞食となって四方に散らばり、中国への出境が許されず風天雪地で凍死して怨霊となった」(日帝の情報報告より)。 その上、スターリンは第2次世界大戦が勃発すると韓人に敵性民族の烙印を捺し、1937年10月から11月まで17万名以上を中央アジアに強制移住させた。

 汝千はカザフスタンの荒れ地で掘っ立て小屋暮らしをしていたが、1938年クジルオルダに移住、病院の警備や劇場の守衛をして末年を送った。1943年10月、友人たちを呼んで豚を屠って食べさせた。それが最後であった。 彼は 10月25日に息を引き取った。 「最後の一人まで祖国独立という初志貫徹で奮闘し、我々の独立を最後まで叫び、死んで初めて止むのだ」(鳳梧洞戦闘の住民歓迎式で)と言っていたその覚悟と夢もたたんだ。

クァク・ビョンチャン先任論説委員 //ハンギョレ新聞社

 最近、官辺と保守マスコミが熱を上げている映画『延坪(ヨンピョン)海戦』の宣伝を見ていると 、洪範図の戦いがいよいよ無念に思われる。 クジルオルダの中央公園墓地に埋葬された彼は、亡くなっても未だ故国に帰れずにいる。

クァク・ビョンチャン先任論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/698229.html 韓国語原文入力:2015-07-01 14:35
訳A.K(4065字)

関連記事