原文入力:2010-08-27午後07:37:49(1289字)
間島史料専門家 キム・ジェホン氏
日本 歩兵75連隊 写真帳公開
キム・ギョンエ記者
←1920年代初め、会寧駐屯歩兵75連隊の写真帳に入っている南洋守備隊隊員らの写真。‘1920年6月、三屯子で南洋守備隊が抗日独立軍に敗れ、すぐに追撃に出た日本軍を洪範図将軍の部隊が対抗しはね除けた’という鳳梧洞戦闘の記録が確認できる史料だ。
日帝による強制併合100周年にあたる29日を控え、抗日武装闘争史で最も輝かしい勝利だった‘鳳梧洞・青山里 大勝’と関連した貴重写真 数十枚が発掘された。
間島史料専門家のキム・ジェホン氏は27日、1920年鳳梧洞と青山里戦闘当時、独立軍にせん滅された日本軍の主力部隊であった咸鏡道羅南19師団配下の歩兵75連隊のアルバムを<ハンギョレ>に公開した。キム氏は「この写真帳は1920年代、歩兵75連隊に服務したある日本兵の除隊を記念し製作されたもので、1990年代に米国、ロサンゼルスに住む在米同胞言論人メン・ウヨル氏がその日本人の子孫から購入したもの」と話した。
←1920年代初め、咸鏡道羅南の日本軍19師団配下の会寧駐屯歩兵75連隊部隊員の除隊記念アルバムに収められている独立軍処刑場面。‘副頭目 マンスンブス’と出ている。当時この部隊は鳳梧洞と青山里戦闘で抗日独立軍に相次ぎ大敗し追撃戦を行い満州一帯の韓国人たちを無差別虐殺した。
実際にアルバムに載っているある独立軍の処刑場面写真には‘大正10年(1921) 7月13日午前9時’という日付と‘哈爾浜’という地名などが明確に記されており、‘馬賊’という名前で日本軍により無差別殺傷された独立軍と韓国人良民たちの大虐殺場面が戦利品のように紹介されている。
咸鏡北道、会寧に駐屯していた歩兵75連隊は1920年6月、鳳梧洞に続き10月には青山里で金佐鎭将軍の北路軍政署と洪範図将軍の大韓独立軍に連敗した後、明東村をはじめとする満州一帯で韓国人数万人を数ヶ月にわたり報復殺傷した‘庚申惨変’を主導した部隊だ。
←1920年代初め、会寧駐屯歩兵75連隊写真帳に載っている日本軍少佐の姿。庚申虐殺を主導した指揮官の実写真が公開されるのは初めてだ。
写真帳にはまた鳳梧洞戦闘直前に豆満江辺の三屯子の戦いで独立軍に大敗したという記録はあるが、その実際の姿は知られていなかった日本軍南洋守備隊の写真も載っている。この他に日本軍の戦闘訓練場面、会寧市内で日本軍が民俗遊びを楽しんでいる姿など当時の日本軍の実状を見せる史料も入っている。
写真帳を調査した独立運動史研究所イ・ドンオン博士は 「鳳梧洞・青山里戦闘をはじめとする1920年代の抗日闘争史料が大部分 光復以後に収録した我が国独立軍とその子孫の証言に基づく研究書中心とすれば、この写真帳は敵軍である日本軍が当時に残した実証的な記録という点で史料価値が高い」と明らかにした。
キム・ギョンエ記者 ccandori@hani.co.kr
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/437087.html