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‘現代史研究タブー’は独立運動史抹殺の意図

原文入力:2009-07-22午後02:58:44
[イ・ドギル 主流歴史学界を撃つ]⑪武装独立闘争研究が貧弱な理由

←1961年11月に行われた独立運動者同人会発起総会記念式。最前列右から五番目が参議府参議長を歴任した金承學で、その右隣が李剛、その隣が金昌淑だ。後列右側から七番目が金承學と共に1963年独立有功者公的審査に参加した吳光鮮だ。

解放直後から1980年代まで大部分の歴史学徒らにとって現代史は一種の禁忌領域だった。いわゆる国史学界の泰斗が作ったと言われるこのタブーは表向き現代史は客観性を持ちにくいという名分だった。青銅器時代になると古代国家が始まるという国史教科書の公式が檀君朝鮮を否認するための意図だという事実を後から悟ったように、韓国にのみ存在する現代史研究禁忌原則もまた独立運動史を抹殺するための意図だという事実を悟ったのもはるかに後のことだった。

“現代史,客観的研究 望み難い”掲げたが
総督府 住宅難解決政策は細密描写
1920年代 参議府など日帝と多くの交戦
高等学校国史教科書には名前だけちらりと

一国が多くの苦難の末に独立を勝ち取り新政府を樹立すれば、同時に独立運動史の研究がブームのように起きるはずだ。しかし韓国は1980年代に現代史研究ブームが起き、この禁止が無力化されるまで独立運動史は少数だけの領域だった。その間に生き生きした証言を残すべき生きている戦士たちは、大部分が苦痛と貧困の中であの世に行かなければならなかった。

←正義府第1中隊長だった鄭伊衡。鄭伊衡は19年の獄中生活を経て、解放と同時に釈放され南朝鮮過渡立法委員として親日派処理特別法制定の先頭に立ったが1956年不遇な生涯を閉じた。

独立運動史は武装闘争史を優先することが原則だ。しかしこれまで国史教科書は武装闘争より植民地体制内の愛国啓蒙運動や実力養成運動などを中心に叙述してきた。武装闘争史はやむをえず名前のみを書く程度だった。現行の高等学校国史教科書は1920年代抗日武装闘争の中心組織だった3府(参議府・正義府・新民府)について“独立軍はまた満州に移動し、各団体の統合運動を推進し参議府,正義府,新民府の3府を組織した。この内、参議府は臨時政府が直轄した」(121ページ)と叙述しているのが全て。学生たちは三府がどんな活動をしたかも分からないまま名前覚えるのに忙しいだけだ。反面、同じ国史教科書は日帝時に大きな発展を遂げたように冗長に叙述している。

“日帝強占期にも人口は増えていった。人口調査がある程度できあがった1910年代末に国内居住韓国人は1700万人程度であった。1930年には2000万人、1942年には2600万人に増えていった。ソウル(京城)の人口は1920年に24万人程度であり、1940年には93万人程度に4倍程増えた。総督府はソウルに都市改修計画を導入し都市の姿を大きく変えた”(242ページ)

朝鮮総督府の植民政策のおかげでますます人口が増加し、ソウルが近代都市に変貌したという記述だ。国史教科書は細部的な生活史まで記述している。

“…1920年代に建てられた改良韓屋(韓国式住宅)は広間と門間房がなくなり大庁にガラスのドアを付けニスとペイントを塗った混合型家屋だった。1930年代に現れた文化住宅は2階建て洋館で、以前にはなかった廊下と応接間,寝室,子供部屋など個人の独立した空間が生じた。営団住宅は1940年代に入り都市民,特に庶民の住宅難を解決しようと建てた一種の国民連立住宅だった。”(243ページ)

人的清算は駄目で親日派の主張は堂々と

1920年代に改良韓屋が現れ、30年代には文化住宅ができ、40年代には総督府で庶民の住宅難を解決するために国民連立住宅も建ててくれたという記述だ。植民地の国民たちは応接間と寝室が別々にあり、子供たちも独立した部屋で幸せな家庭生活を享受したという記述だ。‘日帝時代は良かった’という親日派らの主張が教科書に堂々と蘇ったのだ。‘ニスとペイント’という塗料の名前まで詳細に書いたので紙面が不足し三府の活動内容は書くことができなかったと弁解する訳にもいかないだろう。三府は省略されても構わない組織ではない。臨時政府の傘下だった参議府は1924年結成当時、5個中隊600人余りの武装兵力を持った行政・軍事組織だった。参議府の前身である統義府義勇軍は全盛期には2000~3000人だった。後日、参議府参議長になる金承學は略式自叙伝<亡命客行蹟錄>で1920年8月上海で240余丁の武器と弾丸数万発を多くの辛酸と苦難の末に購入し、光復軍に分け与えるや僅か3~4ヶ月間に日帝機関が発表したものだけでも交戦78回,駐在所襲撃56回,面(村)事務所および営林署焼却20ヶ所,日帝軍警射殺95人という輝かしい戦果を上げ、鴨緑江沿岸と平安南北道地域が一時戦場に変わったと伝えている。参議府は1924年鴨緑江を巡視した斎藤実朝鮮総督の船に数百発の銃弾を浴びせ肝をつぶして逃走させることもした。この時、斎藤実狙撃に出た参議府1中隊1小隊長の李義俊(別名 韓權雄)は2年後に逮捕され平壌刑務所で死刑になった。1925年3月には参議府を急襲した日帝軍警と輯安縣,古馬嶺で熾烈な接戦を展開し、参議長チェ・ソクスン以下29人が戦死する古馬嶺受難を被りもした。こうした事実に対して国史教科書は徹底して無視し、日帝時に大きく発展したという形で叙述しているのだ。正義府も同様に1925年9月頃、5個中隊1ヶ憲兵隊,総勢410人の義勇軍を保有しており、数多くの国内進攻作戦を展開した。正義府義勇軍第1中隊長として何回も国内進攻作戦を展開した鄭伊衡は1927年に逮捕され1945年まで19年間投獄生活を送った。国史教科書は三府の武装闘争には口を閉じたまま、1940年に臨時政府傘下に韓国光復軍が創設されたと叙述している。韓国光復軍が本格戦闘に出る前に日帝が崩壊したので、学生たちは1920年の青山里・鳳梧洞戦闘以外には特別な武装闘争もなしに連合国勝利の付随物として解放されたと認識することになっている。独立運動史研究が禁忌となったために、正義府に対する博士学位論文である<正義府研究>が出てきたのは1998年であり、<参議府研究>が出てきたのは2005年だ。しかも<参議府研究>に至っては参議長,金承學の曽孫子が晩学で歴史学に身を投じて修めた成果であり、臣民府はまだ一篇の博士学位論文すらない状態だ。

中国, 殖民史学‘東北工程’の道具に利用

このようになった根本原因は解放後に親日残滓清算に失敗したことに起因する。1948年に樹立された新政府は、独立有功者表彰と親日派に対する人的清算,そして日帝が作った植民支配理論に対する総合的検討作業に着手しなければならなかった。参議府参議長金承學が1964年発刊した<韓国独立史>の序文で「建国以来この国家百年大計(独立有功者表彰と親日派清算)の原則を疎かにしたことはさておき、かえって日帝の走狗として独立運動者を迫害した民族反逆者を重用するという愚挙を犯”したとして“(これが)前初代大統領 李承晩博士の施政中で最も大きな誤りであり、後日地下に帰って数多くの先輩や同志たちに顔を合わせられると思うのか」と吐露したように、親日派は再び重用された。金承學は「この重大な失政のために李博士は執政10年間に多くの抗日闘士の鬱憤と愛国の志士の非難の的となっていた」と評した。親日勢力が解放後にも社会の主導勢力となり歴史学界も朝鮮末期の老論と日帝殖民史学を継承した学者らが主導し現在に至った。その間、韓国主流史学界は正体性論とか他律性論とかの総論で植民史観を批判しているかのように国民を糊塗したが、東北アジア歴史財団のホームページと韓日歴史共同研究委員会議報告書に見るように、殖民史学は現在も定説であるばかりでなく時間が経つほどにその程度が更に深刻になる価値観の転倒現象を見せている。1949年4月27日、建国功労勲章令が大統領令第82号として制定公布され、その年に初代大統領 李承晩と初代副大統領 李始榮のただ2人だけが叙勲された。独立活動家らの間では、李承晩大統領一人が受ければ非難が起きそうなので李始榮副大統領を挟んで入れたのだという話が多かった。以後、イ・スンマン政府が1960年の4・19革命で崩れる時まで、ただ一人の独立有功者も表彰せず、生存者はもちろん安重根,金佐鎭,李奉昌,尹奉吉など殉国者の誰も独立有功者ではなかった。5・16軍事クーデター以後、軍事政権が正統性補完のために1962年から独立有功者を表彰したが、公的調査委員会には朝鮮史編集会出身らも委員として加わっていた。1963年からは金承學,金學奎,金弘壹,吳光鮮など独立活動家らも委員として参加することになったが、これらが朝鮮史編集会出身委員らに「お前たちが独立運動について何が分かるのか?」と尋ねるや顔を赤らめるだけで何の返答もできなかったという話が一時痛快なエピソードとして独立活動家らの間に広く知られた。しかし独立運動に対して何も分からないこれらが、歴史学界を掌握し独立運動史は抹殺され、古代史は日帝植民史観が定説になり、老論が愛国的な政党だったかのように叙述された。韓国社会支配層のnoblesse oblige(指導層が持つ道徳的義務)が失踪した根本原因もここにある。韓国史の叙述を正す問題はただ韓国社会内部だけの問題に止まらない。現在、東北工程の主要理論は大部分が日帝殖民史学にその根元を置いている。日帝の侵略で大きな苦痛を味わった中国が、日帝殖民史学を覇権主義の道具として使っているということ自体が悲劇だ。韓・中・日3国が相互互恵的な平和的歴史観を確立することが真の東北アジア平和体制樹立への道だ。時代錯誤的な老論史観と侵略的な日帝植民史観の克服は国内的には正しい歴史観を確立することであり、国外的には東北アジア平和体制構築の理論的土台になることだ。 <終わり>

ハンガラム歴史文化研究所長

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/215/367192.html 訳J.S