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[現地ルポ]「4・3不良位牌」と攻撃されるイ・シンホ…彼は不良な犠牲者か (2)

登録:2015-05-01 20:33 修正:2015-05-02 06:38
2008年に建立された済州市奉蓋洞の4・3平和記念館には、碑文の刻まれていない碑石、白碑が横たわっている //ハンギョレ新聞社

「不良位牌」と呼ばれる103人

 親しい人々に忘れ去られた彼の名が、見知らぬ人たちによって呼び起こされる。「4・3犠牲者不良位牌」という名前だ。首相室傘下の「済州4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復委員会」(以下、済州4・3委員会)は2002年~2014年にかけて犠牲者1万4231名を指定し、済州奉蓋(ボンゲ)洞の済州4・3平和公園内の奉安室に1万4091名の位牌を祀った。「不良位牌」とは、済州4・3事件の犠牲者ではない者が犠牲者に化けているという意味だ。

 「大韓民国アイデンティティ回復国民協議会」など16の団体で構成された「済州4・3事件真相究明国民の会」は2月11日、ソウルの言論会館20階にある国際会議室で「済州4・3平和公園内不良位牌剔抉セミナー」を開いた。 「申采浩(シン・チェホ)先生は『歴史を忘れた民族には未来がない』と言われました。 4・3事件の現場で直に目撃し体験した私たちまでが目を閉じるならば、歴史の真実が歪曲され、また別の問題と葛藤を生むことになり、それはそっくり我が子孫に弊害となって帰することが明らかである故に、見過ごしてよい問題ではないと考えます」(セミナー資料集抜粋)。 彼らはこの日のセミナーで、不良位牌103基のリストを公開した。

 昨年、政府は4月3日を国家追悼日に指定した。 しかし、不良位牌と犠牲者再審査の論議は、政府の済州4・3真相調査報告書が採択された2003年以降、一向に絶えない。主務省庁である行政自治部のチョン・ジョンソプ長官が1月15日、「犠牲者に指定された一部の人物が武装部隊の首魁級だという問題が解消されなくては、大統領の位牌参拝は難しい。 このような主張が事実ならば、犠牲者指定の取り消しが妥当だ」と明らかにし、論議が再び浮上している。済州4・3審査小委員会はこの4日、再審査するかどうかについて話し合ったが結論は出なかった。「済州4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」(4・3特別法)には、遺族の申請による再審査規定があるだけで、第3者による再審査規定はない。

 「済州4・3事件真相究明国民の会」が公開した不良位牌103人は大半が南労党幹部で、人民遊撃隊員、警察・検察の秘密諜報部員、入山した武装隊員、入山した警察官、3・1ゼネスト参加の警察官、第9連隊の脱営兵、人民軍に志願した教師などが含まれている。 この基準は、憲法裁判所が判示した犠牲者の除外対象者と類似した脈絡だ。憲法裁判所は2001年9月27日、李哲承(イ・チョルスン)自由民主民族会議代表と予備役将軍の集まりである星友会の鄭昇和(チョン・スンファ)会長など346人が起こした4・3特別法違憲審判で、却下決定を下した。 ただし、犠牲者の除外対象については次のように判示している。

 「済州4・3事件と関連した死亡者のうち、自由民主的基本秩序とこれに付随する市場経済秩序および私有財産制度に反対した者は、その程度により犠牲者決定の対象から除外していく方法を採用することが、憲法の理念と4・3特別法の立法目的に符合すると言えよう。 (中略)済州4・3事件勃発に責任がある南労党済州道党の中心幹部などは犠牲者から除外されるべきだ」。 憲法裁判所は、1948年7月17日に制定され現在まで続いている憲法の観点から、犠牲者の除外対象者基準を定めた。

 10年余り続いた不良位牌論議の中で、常に登場する名前がイ・シンホだ。『済州4・3平和公園内不良位牌剔抉セミナー資料集』の68ページに彼の名が見える。 「南朝鮮労働党済州道党副委員長イ・シンホ。1931年農民テーゼ事件に連累。1932年細花里(セファリ)海女事件の背後勢力の容疑で2年の求刑・判決が下される。 大静面人民委員会副委員長を務め、委員長に推挙さる。1947年3・1大会後検挙され、6カ月の刑宣告」

4月3日を国家追悼日に指定したが
10年間絶えず続く
不良位牌と犠牲者再審査の論議
その中で常に登場する名が
南労党副委員長出身のイ・シンホ

米軍政下、混沌の時代状況
南労党主導の1947年3・1記念大会
イ・シンホは大静国民学校で演説
その日、済州で予期せぬ事故
警察の発砲と大々的なゼネスト…

4・3が進行中だった1948年7~8月に討伐隊が住民たちと話している場面を米軍が撮影したもの。真ん中のカルオッ(チェジュ特有の染色による衣類)を着た住民は中山間の村の居住者と推定される //ハンギョレ新聞社

5000人を集めたイ・シンホの群衆演説

 3月23日、春の日差しが降り注ぐ西帰浦市大静邑(1956年に大静面から昇格) 上モ里の大静小学校の運動場は鮮やかに輝いていた。緑の人工芝が敷かれたサッカー場、そしてサッカー場の外側をワイン色の陸上トラックが取り巻く。人口1万7000人の大静邑の小学校にしては、規模も大きく新品のように無傷だった。学校の歴史は100年を超える。

 68年前の1947年3月1日。緑の芝生のグラウンドやワイン色の陸上トラックは未だなかった同校の運動場の土を、イ・シンホも踏んでいた。当時、人口2万余だった大静の住民のうち5000人余りが結集した。近くの加波島(カパド)からも住民100人余が漁船に乗って参加するほど、運動場はにぎわっていた。学校の近くに住んでいたイ・シンホも、大静国民学校の運動場まで歩いていった。

 当時は米軍政期(1945年9月8日~48年8月15日)で、政治・経済が不安定だった。米軍政下だった1946年、農村のコメを強制徴収する米穀収集令が発令され、これに抗議するデモが全国に広がった。第2次世界大戦終了後、済州島では凶作が続き、海外に移住していた済州島民が帰国して失業率が高まった。米軍政の「対日貿易および日本商品流通禁止」により済州島の経済が急激に萎縮し、米軍政の穀物収集政策に対して済州島人民委員会が米穀収集阻止運動を主導するなど、経済的不安と米軍政に対する不満が次第に深まっていった。(2001年憲法裁判所決定文)

 3・1運動28周年を迎え、南労党が組織した記念大会は邑・面単位で開かれた。済州邑は涯月(エウォル)面と朝天(ジョチョン)面を合わせて済州北国民学校で、大静面は大静国民学校で開かれた。イ・シンホと大静中学のイ・ドイル校長が演説を、イ・ウンバン氏が司会を務めた。大静国民学校では歓声が沸き起こった。

「民主主義的愛国闘士を即時釈放せよ! 人民抗争関係者を即時釈放せよ! 最高指導者 朴憲永先生逮捕令を即時撤回せよ!」

「民主主義臨時政府樹立万歳! 政権はただちに人民委員会に渡せ! 日帝的統治機構を粉砕せよ!」

「親日派・民族反逆者・親ファッショ分子の根絶! 三相会議の決定即時実践! 人民経済を破壊する輩の徹底掃蕩!

「言論・出版・集会・結社・スト・示威・信仰の絶対的な自由! 食糧問題解決は人民の手で!」(南労党済州道委員会の3・1運動記念闘争の方針に出てくるスローガン)

 スローガンを理解するには時代状況を知る必要がある。韓国の独立のために民主臨時政府を樹立するという議定書が1945年12日、モスクワ三相会議で採択された。 しかし、これを実践するための米ソ共同委員会が1946年1月に決裂し、国の未来が不安な時期だった。南だけの単独政府樹立の可能性が高まり、米軍政は左派を弾圧した。 1946年9月、南労党指導者、朴憲永(パク・ホニョン)らに対する逮捕令が下され、『人民日報』『現代日報』『中央新聞』の3つの左派新聞が停刊に追い込まれる。 このような時代状況に対応するために、3・1記念行事が行われたわけだ。

 1947年3・1記念日を前後して、これを抑えるための済州の警察力増強に伴い、済州邑一帯には緊張感が漲っていた。済州島司(現在の済州道知事に当たる。当時は米国人・韓国人共同で務めた)兼米軍第59軍政中隊の指揮官スタウト少佐は、3・1記念日行事を控えてデモを禁止する一方、記念行事をするなら西飛行場(現在の済州国際空港)で挙行するよう通告を発した。その中で忠清南道・忠清北道警察庁所属の100人の応援警察隊が済州島に入った。 しかし、同日午後2時頃、記念行事が終ってから軍政当局の禁止にもかかわらず、許可されていない街頭デモが始まった。午後2時45分頃、観徳亭(クァンドクチョン)前広場で騎馬警官の乗った馬に子供が蹴られて騒動が起こった。群衆がブーイングを浴びせ、石を投げつけた。慌てた騎馬警官が同僚のいる警察署に向かって馬を走らせ、その瞬間、銃声が轟いた。騎馬警官を追って群衆が押しかけ、警察署襲撃と誤認して発砲したのだ。民間人6人が死亡し、6人が重傷を負った。警察は終始一貫、警察署襲撃事件と規定し、民心を収拾しようとはしなかった。

 3月5日、南労党済州道委員会の数十人の幹部たちが、済州邑三徒(サムド)里のキム・ヘンベクの家に集まり「3・1事件」対策を議論した。イ・シンホ、イ・ウンバンらの属した南労党大静面党が3・10ゼネストを建議し、道党は受け入れた。 「事件の重大性に鑑みて、黙過できないことだ。 しかし、相手は頭のてっぺんから爪先まで完全武装をしているのに我々は徒手空拳であり、彼らの銃剣部隊と直接の正面衝突は到底考えられないことだ。したがって、平和的抗議の意思表示として全島ゼネストを全員一致で可決して、組織部イ・スンジン(キム・ダルサム)を連絡員として道党本部に派遣することを建議することにした」(イ・ウンバン『4・3事件の真相』)

 3月10日、済州島では韓国で類例のない官民ゼネストが展開された。官公庁、通信機関、運送会社、学校、米軍政庁通訳団、公務員などが参加した。警察の3・1記念行事への発砲に抗議するストは南労党済州道委員会が背後から支援した。同日、パク・ギョンフン済州島司とキム・ドゥヒョン総務局長など100人の職員が大会を開いた。 スタウト少佐兼済州島司に対し、発砲警官に対する処罰と拷問の廃止など6項目を要求した。 この要求が受け入れられるまで、済州道庁職員140人余がストライキを決意したと明らかにした。 『済州警察史』は「警察や司法機関を除く全機関団体がゼネストを実施し、その数は166の機関団体、参加人員4万1211人」と説明する。 済州警察の集計から漏れている一部の警察官や機関・団体に属さない民間人のストまで考慮すれば、さらに多かったと推定される。 ストは3月20日前後に小康局面に入った。

 4・3特別法は第2条第1号で「済州4・3事件は、1947.3.1.を基点として1948.4.3.に発生した騒擾事態および1954.9.21.までに済州島で発生した武力衝突と鎮圧過程において住民が犠牲になった事件」と規定している。

文:西帰浦、大静邑/パク・ユリ記者、写真:済州道庁・米国国立文書記録管理庁・済州4・3平和財団提供、グラフィック:ソン・グォンジェ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/684407.html 韓国語原文入力:2015-03-29 10:24
訳A.K(13556字)

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