陣営論理という言葉がある。味方なら間違っても庇い、敵なら容赦なく批判する行為などをいう。真実を報道しなければなら報道機関がこのような陣営論理に陥り、我田引水のように事実を歪曲して伝えているという批判をしばしば受ける。
昨年12月に、ある高校生が「シン・ウンミ トークコンサート」の現場で爆発物を投げつけた時、ハンギョレはこれを「テロ」と規定した。しかし、マーク・リッパート駐韓米国大使に加えられた暴力については、テロという言葉の代わりに「襲撃」と書いた。二つの事件とも、暴力行為自体についてはあり得ないことだと強く糾弾したが、使う用語は異なっていた。
政治的な意図がある暴力事態に対して、一方はテロとしながら、他方は襲撃というのは論理的な一貫性が欠けているように映るかもしれない。特に「極右志向」の高校生による爆発物の投擲はテロと非難しながらも、「革新志向」の活動家による米国大使への攻撃は襲撃というのは、味方の庇護との批判を免れない。米国大使事件の場合は、被害者と米国の方がテロという用語を使わないのに、私たちがあえてテロとする必要があるのかと言えなくもないが、すべてを人のせいにするわけにはいかない。陣営論理に基づいて恣意的で不公平な言葉を使うと、報道機関は国民の信頼を失うことになる。(これからは)記事を書くとき、客観的な実体を示せるよう、より厳正な言葉を選んで書くように努力する。
かといって、異なる意見をすべて陣営論理によるものと断定するわけにはいかない。そうなると、何が正しくて何が正しくないのかの判断が行き場を失ってしまう。従北攻勢が正しくそうだ。
ハンギョレが継続的に保守政権と保守言論の従北攻勢を批判しているのは、陣営論理に陥って革新勢力の肩を持つためではない。従北攻勢が激しくなればなるほど、韓国社会の民主主義は後退し、南北関係はもちろん国際関係にも莫大な支障をきたすことを憂慮しているからだ。
まず、従北攻勢は個人の良心と思想を検閲するということに他ならない。自由民主主義的価値に真っ向から反する。権力を握った保守勢力が国民を相手に従北議論を呼び起こすのは、敵か味方かを明らかにするように脅かしているようなものだ。このような抑圧的な雰囲気が広がって国民の日常生活を締め付けると、社会全般が硬直し兼ねない。シン・ウンミ事件以後、北朝鮮の実状の悪い面を指摘するのは構わないが、良い面を浮き彫りにするのは従北となる国になった。このような社会を民主主義国家とは言えない。
従北をめぐる議論が南北関係に悪影響を及ぼすことは言うまでもない。私たち(韓国の人々)にとって北朝鮮は二重的な存在である。私たちの安全保障の脅威となる最も好戦的な存在であり、いつかは抱き合って一緒に生きて行かなければなら同じ民族でもある。このような厳しい「現実」と希望に満ちた「当為」を、どのように調和させながら未来に進むのかが、私たちの前に置かれた困難な課題である。ところが、従北攻勢が続くと、北朝鮮を除去すべきが対象と想定するなど、対決局面が強化され、ややもすると過去の戦争状態に戻る可能性もある。南北双方にとって不幸である。
国際関係に及ぼす影響も小さくない。従北攻勢は、必然的に対米従属的な局面につながる。駐韓米国大使事件の後、政界と私たち社会の一部で行き過ぎた米国偏り現象が現れている。いずれ落ち着くことを期待しているが、今回の事件を契機に政府の軍事・外交政策が米国側に傾き過ぎた場合、私たちの国際政治的地位は縮小せざるを得ない。私たちを取り囲んでいる中国とロシア、そして米国と日本との関係をどのようにバランスよく維持していくのかに、私たちの生存と未来がかかっているということを知るべきである。
もちろん、北朝鮮の体制を追従し、暴力を通じて自由民主主義体制を転覆しようとする「本当の従北勢力」は、私たちの社会に根付かせないようにしなければならない。米国大使事件にもそのような背後があるかどうか、厳正に捜査しなければならないのは当たり前である。しかし、今行われている従北攻勢は多分に意図的であり、政略的である。そして、それによって、私たちが払わなければならない代価があまりにも大きい。保守勢力がそれを承知で従北攻勢を行っているのなら、それは自分たちの政治的利益のために国を亡ぼすことである。謙虚に振り返ってみてほしい。
韓国語原文入力: 2015.03.09 19:01