私は普段はほとんど映画を観る時間がありませんが、ここ何日間か体調が悪く、自宅で静養していたため、子供にノルウェーの「変わった歴史」を案内してみようという、ある種の宣教熱(?)に駆り立てられ、子供と一緒に『高校教師ペデルセン、そして我が国に幽霊のごとく訪れてきた政治的な自覚に関するナラティヴ』(2006)という邦画を観ました(http://www.imdb.com/title/tt0417046/)。勿論「性革命の時代」を扱った映画であるだけに、露骨な性行為の場面が多く、その度に子供に見ないようにと言わなければならなかったものの、子供も私もその映画に深い感銘を受けました。勿論私としては不満もなかったわけではありません。この映画の主題は、68年直後からノルウェーで発展し、1970年代初頭にはピークに達した毛沢東主義的な政治運動(労働者たちの共産党運動)ですが、その運動の捉え方が多少「後日談的」です。その運動の周辺にいてから、後にノルウェーを代表する作家に成長したダグ・ソルスタッド氏(Dag Solstad)の原作もそうですし映画もそうですが、主人公たちの革命熱を尊敬すべきものとして扱いつつも、どちらかといえば彼らの運動を真摯な政治経験というより、一種の「判断ミス(中国革命に対する過大評価)に基づいた似非宗教体験」として見ようとする傾向も少し目立っており、それだけにその運動の時宜性や現在性を暗黙的に否定しています。しかし、このような限界はあるとしても、ノルウェー最後の革命運動を扱ってくれたことだけでもありがたいと思います。その運動を「毛沢東とポル・ポトにイカれてしまった連中」と戯画し非難する大衆向けの書籍はあっても、このように映画化されたのはこの映画が初めてであると同時に現時点では最後です。その予告編はここにありますが(http://www.youtube.com/watch?v=iML7gUKGA-E )、ノルウェー文化になんらの関心もない大韓民国ではこの映画を知っている人はおそらくいないことでしょう。
高校生の弟子に感化され、結局その弟子と同じ革命サークルに加入し、そこである若き女戦士と短いながらもあまりにも熱い「不法な愛」に陥った男性主人公、そして学生出身として工場に入り「労働者革命の組職」に失敗した後、革命を準備するために購入したピストルで自殺する女性主人公……。彼らと、そして彼らと関わった多くの人々の話を画面で見て、その画面から1968年直後の空気を吸いつつ、私はずっと一つの思いを振り切ることができませんでした。私は1973年生まれなので、女性主人公の自殺の時点は、私は大体4歳の時に当たります。考えてみれば、そんなに永い歳月が流れたわけでもなく、私の大学の同僚には70年代初頭の革命サークルの雰囲気を個人的によく覚えている方々もいらっしゃいます。つまり、まだ死なずに生きている、そんな歴史なのです。にもかかわらず、画面から吸えるその空気と外に出てオスロの至る所で感じる空気とは、それぞれ極めて異なる世界に属します。今日のオスロ中産層の若者の立場でこの映画を観れば、御伽噺やファンタジー小説により近いと言えるほどです。それほど社会は大きく変わってしまい、必ずしも良い方に変わったようにも思えません。
画面の中の主人公たちはベトナム侵略反対闘争も続けており、南ベトナムで米帝の敗退した日はお祝いのデモを起こしたりしますが、それと同時にありうる武装革命に備えて射撃訓練などを自発的に行います。ドイツ、イタリア、日本と異なり、ノルウェーの新左翼は直接武装行動を行ったことはないものの、NATOに加入しているなど、国際的な「暴力の輪」につながっているノルウェー国家との対決過程で武器をも必要とするかもしれないという意識があり、このような命をかけた対決を避けようとは思わなかったのです。それほどに国家の内在的な暴力性を直視したとみなければなりません。ヨーロッパ諸国の暴力性は、あの時代だけでなく、フランス軍が既にマリに介入し、数百人の民間人を射殺した今日の時点においてもあまりにも露骨です。ところが、マリ侵略のような希代の暴挙に私たちヨーロッパ左翼が今対応している方法は果して何でしょうか? 暴力を行使する国家に暴力で応ずるという決意が見られないことはもちろん、侵略反対のための平和デモさえもまだほとんどありません。フランスの共産党をはじめとする左翼政党がただ形だけの「反対声明」を出したにすぎません。侵略を企てる大統領らは果してこんな「声明」など読むでしょうか?武装抵抗であれ非武装抵抗であれ、ヨーロッパ左翼の抵抗意志はあまりにも低下してしまったことは明らかだと感じられます。もちろんギリシャなどのように、ノルウェーやフランスより遥かに困難な立場に立たされている労働階級の前衛政党はかなり異なっていますが。
画面の中の女性主人公は教授の家に生まれた医師ですが、革命を準備するために紡織工場に偽装就業します。男性主人公は教職を辞退し郵便配達に就くことを最後まで敢行できず、遂に同志たちから批判され運動から遠のくようになります。70年代初頭のノルウェーの革命運動の雰囲気は概してそのようなものでしたが、今では教師や教授の職にそのまま残り、講義ないし研究内容で第3世界の搾取問題などを扱うことだけでも「闘争」と呼ばれたりします。批判意識に基づいた研究自体が次第に少なくなったためかもしれませんが、一方でそれだけ(私を含む)中産階級の自己中心性は強くなったといえます。最早他の階級に「会うために」、楽な日常を振り捨てることなどありません。画面の中の社民主義黄金時代、労働者たちが革命の女戦士の訴えになんの関心も見せず、結局彼女を絶望と自殺に追い込んでしまいますが、今なら、もしかすると工事現場のポーランド人労働者たちが遥かに熱烈な反応を見せたと思います。非正規雇用、派遣社員の彼らには「搾取」という言葉は今や遥かに現実的になってきたからです。にもかかわらず、左翼知識人と言われる人でも「現場」との出会いにはほとんど関心を示していません。
画面の中の革命戦士たちはソ連の歌を歌い(たとえ現実的な観察とはいえなくても)、中国革命を理想化して付き従おうとします。国家主義的な、開発主義的な一面もあった毛沢東に対する彼らの一方的な憧れはやや子供じみていると言えましょう。しかし、批判的な慧眼を欠いたことがよくなかったといえばその通りですが、第3世界の革命運動との連携を模索する部分自体は極めて必要なことではないでしょうか?問題は、今はノルウェーの左翼知識人たちは第3世界の革命に対する(極めて少い) 関心はあっても、彼らと積極的に連帯しようとか、彼らから何かを学ぼうとする態度はほとんど見当たりません。40数年前、「文化大革命」を一方的に美化してばかりいたことは問題だったとはいえ、今となっては、ノルウェー左翼は、たとえばネパール革命やインド共産党毛沢東主義派(ナクサル)の遊撃隊運動などについて意識そのものが極めて貧弱です。地理的に接しているロシアの急進左翼についてもほとんど知らないようです(ロシアの急進左翼と近い見方であるギリシャ共産党の態度と正反対です)。最早「貧しい左翼」は私たちの同志ではないということなのか、少し残念です。
外でコーヒーを一杯飲む代りに、そのお金を節約して党に自発的に寄付しようとした70年代初頭の戦士たちを、今日オスロの中産層の町では想像することさえできません。その間ノルウェーの中産層は豊かになり、また豊かになっただけに、「ひとりひとりの関心事」、主に「消費」を中心にして徹底的に原子化してしまいました。武装訓練や最小生活費以上のあらゆる所得を党に納めようとする態度はもちろん、明らかな「立場」や「所属感」は最早多くの人々にとってはあまりにも大きな負担、「不自由」なだけです。彼らはいかなる義務も感じない、良心の呵責が基本的に遮られている存在の状態を「自由」と呼んでいます。嗚呼、彼らがこの世界に対する一つの真理を忘れていることが問題です。苦しみというのは個人だけの問題ではなく、他人の苦しみというのはありません。結局、他人の苦しみはいつか「私」の苦しみになるはずであり、これは単純に時間の問題です。世界が今まで通り行けば、すなわち恐慌が深まり、列強間の角逐が今より遥かに先鋭化していけば、たった今アフガンやマリの農民たちが実感している戦争の苦しみを、多くの「豊かな」地域の人々も約10年後には自分の肌で感じることでしょう。その時になってかつての自分たちの無関心を後悔しても遅いのです。人間が死ねずに生きている以上、歴史からの「自由」はありません。