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「もう十分生きたから」三姉妹は走った…内乱を防いだ韓国市民らのあの夜(2)

登録:2025-03-03 06:47 修正:2025-03-03 08:32
[.txt]真実の力、「12月3日、国会前にいた市民たち」をインタビュー  
「引き止める娘を振り切り」「戒厳軍を追いかけながら」 
共に守り抜いた日常「光り輝いて暖かかった」
ユ・ヒョンミさん「戒厳が成功すると思うと、もう生きていけない気がしました。耐えられない侮辱感を覚えました」=「真実の力」提供//ハンギョレ新聞社

(1から続く)

 三姉妹が国会図書館の正門(午後11時4分閉鎖)に着いた時、ヘリコプターが国会の中に降りてきていた。先に集まっていた人々がスローガンを叫んだ。2024年の冬に再び耳にした20代頃のスローガンだった。「偶発的だとしても流血事態が絶対に起きないように」と願いながら、彼女らは「おかしいが、どこか悲しい」スローガンを共に叫んだ。

 「独裁打倒! 戒厳撤廃!」

 「真実の力」の設立者たちは、1970・80年代のスパイ捏造事件など、国家暴力の被害者たちだ。非常戒厳令のニュースを聞いた時、彼らは自分たちを拷問した軍事政権を思い出し、身震いした。「5・18(光州民主化運動)当時、道庁を守った人々の話をきちんと記録しておけば、韓国現代史と民主主義の貴重な資料になったはず」(ソン・ソヨン常任理事)という思いもあった。「軍部独裁の被害者が建てた財団が、軍部を前面に立たせた内乱の試みを防いだ市民を記録することは、(財団の)設立趣旨とも合致した」。2015年にチームを組んで「セウォル号」惨事を記録した真実の力は、10年ぶりに再び記録チームを立ち上げた。緊急予算を編成して第一歩を踏み出した。戒厳当時国会に駆け付けた痕跡をソーシャルメディアなどに残した「一人ひとり」に接触し、インタビューした。

 イ・ジュンヒョンさん(2月13日インタビュー)が国会3門(議員会館と疎通館側)の前に到着した時、警察のバスが一列に並んで通行を阻んでいた。警察の監視の目が届かない場所を探し、午後11時45分頃、国会の塀を乗り越えた。 「5・18の映像で見たものより怖い」ヘリコプターが、轟音を立てながら国会内に進入(午後11時47分)していた。

尹錫悦大統領の非常戒厳宣布直後の昨年12月4日未明、国会に入ろうとする軍の車を市民が阻止している=ペク・ソア記者//ハンギョレ新聞社

 イさんは長い間、負い目を背負って生きてきた。2014年に会社を設立する際に「意図的に」定めた創立記念日は5月18日だった。1996年「延世大学事件」(第7回汎民族大会と第6回青年学生統一祝典の参加学生5713人連行)の現場にいた彼は、警察に連行される後輩たちの姿を忘れることができなかった。その気持ちで「民主有功者の礼遇に関する法律」の制定を求め、国会前の1人デモにも参加してきた。イさんはヘリコプターから降りる兵士たちの映像を携帯電話で撮った。記録が「証言」であることを彼は知っていた。戒厳軍の動きをカメラに収めた。「ばれないように暗い所を探しながら」身を隠して兵士たちの後を追った。

 「ヘリコプターが往復して運んだ兵士たちが本館(翌日0時22分封鎖)の裏門の方に非常に多く集まりました。進入(0時45分)する彼らを阻止するためのもみ合いが続きました。市民たちが扉を背にして二重三重で立ちはだかりました。私も兵士たちを体で押しのけました。707特殊任務の隊員たちがそばにおり、一瞬衝突が起きそうでした。兵士たちが人々を引きずり出し、私の隣の人が転びました。彼らは若くて力があるので、私も横に引きずり出されました」

 昨年12月4日、戒厳軍の時間帯ごとの動線はイさんが撮影した映像でも確認された。午前1時9分に兵士たちが国会から出てきて、1時16分に撤退が始まった。1時22分には正門側に残っていた兵士たちを撮った。1時36分、心配した妻から電話がかかってきた。正門封鎖が解除された後、ようやくイさんは「寒さを感じた」。

イ・ジュンヒョンさん「市民たちが扉を背にして二重三重で立ちはだかりました。私も兵士たちを体で押しのけました」=「真実の力」提供//ハンギョレ新聞社

 遠くから駆けつけた人々だけではなかった。国会前が「戦場」である人々はその日もそこで「暮らして」いた。

 「まずは身を隠すように言われました。まもなく戒厳軍が押し寄せてきて、間違いなく捕まるだろうから、徒歩10分の距離にある他の支会の事務室に避難するようにと、暗証番号を教えてもらいました」

 戒厳直後、キム・ソニョンさん(53)に金属労組ソウル支部組織局長が電話で避難を勧めた。キムさんが支会長を務める自動車販売連帯支会は、国会前で労組法第2・3条の改正を求め、3年近くテントで座り込みを行ってきた。その日の夜「テントで横になって寝返りを打っている時」、母親から連絡を受けた事務長が「戒厳」が宣布されたと伝えた。ニュースで事実を確認した2人がテントから飛び出した。警察バスから警察が大勢降りてきて、国会への出入りを統制していた。携帯電話で撮って労組のグループチャットに載せた。映像が組織の連絡網を通じて素早く広がった。民主労総副委員長と産業別委員長が次々に到着した。

 「もちろんです。当たり前ですよ」

 「ここで中央執行委員会を開いてもいいか」と副委員長に聞かれたキムさんは「聞く必要もないでしょう」と答えた。午前2時50分、総連盟委員長が到着するやいなや支会の座り込みテントで「非常重集」を招集した。その場で民主労総の闘争指針が決まった。キムさんは集会の度に使用していた大型スピーカーを国会周辺のあちこちに設置した。そのスピーカーがあの日、民主労総と市民の「高性能の声帯」となった。6日、真実の力のインタビューに応じたキムさんが当時を振り返った。

 「市民たちの前で委員長が『尹錫悦の戒厳軍と全面ストライキで対抗する』と宣言しました。最後まであきらめずに戦うと言いました。スピーカーを警察に奪われないように守ってほしいと訴えたりもしました。午前3時過ぎにはマイクを市民に渡しました。市民たちが並んで一晩中発言を続けました」

 キムさんと支会事務長は内乱現場で速やかに動きながら、戒厳初期の市民社会の対応を繋ぎ止めた。スピーカーの周辺を守りながら、装備に問題が生じないか見ていたキムさんは、家に電話して子どもたちにこう語った。

 「父さんと連絡が取れなかったら、捕まったと思ってくれ。心配しないで。死ぬわけではないから」

(3に続く)

イ・ムニョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1184863.html韓国語原文入力: 2025-03-02 10:22
訳H.J

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