「2003年に大邱の中央路(チュンアンノ)駅で娘を亡くした者です」
「泰安(テアン)の海兵隊キャンプに行って帰ってこられなかったピョンハクの父のイ・フシクです」
「ステラデイジー号の2等航海士ホ・ジェヨンの姉です」
自分の名よりも先に、まず星になった家族を紹介する人々が集った。17日午後、大邱地下鉄惨事から20年目の日を前に、大邱市中区(テグシ・チュング)のYMCAペクシムホールに集まった全国の災害惨事被害者の遺族たちだ。
20年前の大邱地下鉄惨事で娘を亡くしたチョン・インホさん(72)は、わき上がる胸の苦しさを隠せなかった。「喉が詰まって何から話せばいいのかわかりません。地球上で同じ痛みを抱える者同士、今日は良い話をしましょう」
チョンさんは2003年の惨事当時、大邱市が軍部隊を動員してわずか1日で惨事現場を片付けたことを思い出した。大邱市は惨事翌日の19日から地下鉄の一部区間の運行を再開し、惨事の現場は水で掃除してしまった。行方不明者の収拾も終わっていなかった。
「チョ・ヘニョン(2003年当時の大邱市長)が事故の跡をすべて片付けてしまったんです。私たち行方不明者の家族はせめて骨の一つでも見つけるためにゴミの山を探しました。だから今も腹が立っているんです」
チョンさんは、惨事の解決過程は「最初から間違っていた」と語った。「惨事の痕跡を消そうとしてばかりいて、大邱市はまだ追悼事業をまともにやっていません。私たちは(惨事を)きちんと記憶し、二度とこのようなことは起こってほしくない、それだけなんです」
イ・フシクさん(58)は、息子を亡くしてこの7月で10年になる。彼の息子は2013年、忠清南道泰安で私設機関が運営する海兵隊キャンプで死亡した。事故後、教育部と再発防止対策を約束したが、うやむやになった。「息子の葬儀が過ぎたら、(再発防止対策を約束した)契約はなかったことになりました。教育部は早くこの件を終わらせたかったのです」
イさんは、きちんと真相を究明するためには、教育部の責任を明らかにしなければならないと強調した。「学校にほぼ半強制的に行かされたキャンプでしたが、責任を取る公務員はいません。私たちにとって最もつらいのは、子どもたちの惨事に責任のある公務員たちが大いに昇進し、良い思いをしているということです」
ホ・ギョンジュさん(44)の弟は、2017年にブラジルから中国に向かっている途中、南大西洋で沈没したステラデイジー号に乗っていたが、6年たった今になっても戻ってきていない。船が沈んだ場所は水深が3500メートル。当時の韓国の技術では捜索が不可能な深さだった。政府は2019年、遺族の説得に応じ、米国の業者に委託して船を捜索した。「当時、捜索の際に水中カメラが撮った写真には骨と服がとても鮮明に映っていましたが、政府は金がかかるという理由で捜索業者を撤収させてしまいました」
国会で2回目の捜索を求める公聴会が開かれ、関連予算も策定されたが、いつも国会の敷居を越えられない。ホさんは「船舶が沈没した理由は明確だった。会社の船の管理がめちゃくちゃで、乗組員を死地へと追いやった。そのような経営陣をきちんと処罰してはじめて、同じ惨事が防げるのに…」。ホさんはそれ以上言葉が継げなかった。
災害に対する当局の態度は時間や空間とは関係なしに一貫していた。そう彼らは言う。大邱地下鉄惨事の遺族たちは2016年にセウォル号惨事の遺族を、セウォル号惨事遺族たちは2022年に梨泰院(イテウォン)惨事の遺族を訪ねている。先に起きた惨事の社会的責任を問えなかった申し訳なさで、自然に足が向いたのだった。
大邱地下鉄惨事犠牲者対策委員会のユン・ソッキ委員長は「亡くなった犠牲者が生き残った家族に望むことは何か、自らに絶えず問うてきた。答えは『二度とこのようなとんでもない惨事が起きてはならない』だった。しかし収拾主体である行政当局や司法当局は、いつも私たちを厄介な存在だとばかりと考えている。私たちは彼らに、私たちの暮らしと命を守ってくれることを願って権限を委任したのに、彼らはそのことを知らないようだ」と語った。
この日集まった大邱地下鉄犠牲者対策委、4・16セウォル号惨事家族協議会、仁ヒョン洞(インヒョンドン)火災惨事遺族協議会、加湿器殺菌剤惨事汎団体「ビクティム(Victims)」、泰安海兵隊私設キャンプ惨事遺族協議会、ステラデイジー号対策委員会、三豊百貨店惨事被害家族協議会、シーランド惨事家族協議会の8つの遺族団体は「全国災害惨事被害家族連帯」を結成した。彼らは今年「生命安全バス」に乗って全国の災害惨事の被害者と連帯し、来年1月には災害惨事被害者を助ける「災害被害者権利擁護センター」(仮称)を設立する予定だ。大邱地下鉄惨事が起きた中央路駅の「記憶の空間」前で17日に行った記者会見で、彼らは次のように語った。
「私たちの自責が集まって分かち合われ、もうひとつの社会的責任が生じました。より安全な社会を作るために惨事を忘れず、私たちの経験を分かち合っていきます。大邱地下鉄惨事から20年目を迎えます。すべての惨事は毎年めぐってきます。私たちは近況を尋ね合いながら、私たちの社会の安寧を祈ります」