<梨泰院(イテウォン)惨事の犠牲者と遺族の物語をシリーズで掲載します。ハンギョレと「ハンギョレ21」は、私たちが守るべきだった一人ひとりの人生がどれほど大切か、それが消え去った家族の人生はどうなったのか、遺族が知りたい真実とは何なのかを記録する予定です。>
父は息子が賢く世の中を生きていくことを願った。「かしこいの賢」に「ひろげるの叙」で「ヒョンソ」と名づけた。父親のイ・ホゴンさん(48)の望み通り、ヒョンソさんは寛大でいい子に育った。ヒョンソさんには15歳年下の末の妹を含めて妹が3人いる。「父さんがいないときは、お前が父さん役をするんだぞ。父さんはバイクで仕事をしているからいつ事故で死ぬか分からない。父さんがいつ死んでも、ヒョンソが妹たちの面倒をよく見るんだぞ」。スーパーで働くホゴンさんは、退勤後はバイクで配達の仕事をしていた。朝早く出かけ、日付が替わってから帰ってきた。月に一度みんなでご飯を食べる日が唯一、家族全員が集まる日だった。
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頼めばどこにいても家に帰ってきてくれた息子
ホゴンさんの頼みにヒョンソさんは忠実に従った。父親のいない家で、ヒョンソさんは父親役を果たした。親戚の結婚式のような家族行事でも、父親の空席はヒョンソさんが埋めた。
末の妹のタヒョン(2)をヒョンソさんは特にかわいがっていた。「母さん忙しいから、早く帰ってきて妹をおふろに入れてくれる?」 母親のパク・ユスンさん(47)のショートメッセージを受け取ると、ヒョンソさんはどこにいても急いで家に帰ってきた。父親よりも兄に近く接していたタヒョンは、ヒョンソさんを「パパ、パパ」と呼んだ。ご飯を食べる時もタヒョンはいつもヒョンソさんの隣に座った。「誰がパパ?」母と父が冗談のように尋ねると、タヒョンはヒョンソさんの胸に飛び込んだ。
タヒョンが生まれた後、ヒョンソさんは友達とあまり遊ばなくなった。もしも幼い妹が新型コロナに感染したら…と心配だったからだ。主に家でタヒョンと遊んだ。妹の写真を撮ったり、ひざに座らせてパソコンに向かったりして過ごした。ジグソーパズルも好きだった。
そんなヒョンソさんが初めて友人たちと遊びに行ったのが、今秋の済州島への修学旅行だった。高校初の修学旅行。済州島も飛行機も生まれて初めてだった。友達と一緒に遊びに行くだけでも幸せだったヒョンソさんは、修学旅行から帰ってきて言った。「父さん、母さん、修学旅行に行かせてくれて本当にありがとう」
修学旅行後、ヒョンソさんはそれまで行けなかった映画館やカラオケに友達と行くようになった。そんな時も妹のことを心配して、屋内でも屋外でもマスクは外さなかった。
ヒョンソさんは機械をいじったり操作したりするのが好きだった。幼い頃から機械を扱う仕事をする父親を見て身につけた手先の器用さがあった。家電製品が故障するとヒョンソさんが直した。親が携帯電話を買えば、ヒョンソさんが必要なアプリをインストールした。ホゴンさんの言うことをよく聞き、また父親のようになりたいと思っていたヒョンソさんを、ホゴンさんは信頼していた。午前5時に起きなければならない日には、ヒョンソさんに起こしてほしいと頼んだ。
頼りにし合っていた父と子の意見が対立したことが一度あった。大学進学をめぐってだった。マイスター高校(特化した産業分野の専門高校)2年生のヒョンソさんは、卒業してすぐに就職してホゴンさんと共に働きたいと言った。「韓国では大学に行かずに会社に入ったら、生きていくのに苦労する。父さんは、後悔しないようにお前には大学に行ってほしい」。いつも父親の言うことに従っていた素直な息子だったが、就職だけは自分の意思を曲げなかった。10月30日、ホゴンさんはそれが息子との最後の会話だったことを知った。
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玄関にはヒョンソの靴がなかったけど
その日、母親のユスンさんのもとにヒョンソさんからショートメッセージが送られてきた。「今日は友達の家に泊まってくるから」。ヒョンソさんはクラスメイトのトンギュさんと他のクラスの2人の友人と共に梨泰院に行った。10月29日夜、ホゴンさんは配達の仕事をしていて、0時ごろに食堂に入った。注文した品が出されるのを待ちながら、テレビで流れるニュースを見ていた。梨泰院で圧死事故が起きたという。「ソウルでどうしてあんなことが起こるんだろう」と思った。午前2時ごろに家路についたホゴンさんは、不思議と眠れなかった。4時までぼんやりと梨泰院惨事のニュースをテレビで見ていた。
10月30日午前9時15分。呼び鈴が鳴った。インターホンを手に長女が言った。「お父さん、警察だって」。ホゴンさんは戸惑いながら1階へと下りていった。改めてバイクに乗っている時に信号をきちんと守ったか思い出してみた。警察官はホゴンさんに尋ねた。「イ・ヒョンソさんのお父さんでいらっしゃいますか」。そして警察官は信じられない話をした。ホゴンさんは、遅く帰ってきた日には玄関に置いてある子どもたちの靴を確認していたのだが、その日に限って確認していなかったことを思い出した。4階に駆け上がったホゴンさんは、ヒョンソさんの部屋の扉をがばっと開けた。「ヒョンソどこ行った?」 外出から帰宅したばかりの母親のユスンさんも戸惑った。「友達の家に泊まると言ってたけど…メッセージ来てなかった?」 ホゴンさんは崩れ落ちた。
ヒョンソさんの伯母に連れられてようやく到着した梨花女子大学ソウル病院の遺体安置室で、横たわったヒョンソさんと対面した。警察官は覆ってある白い布を取って顔だけをそっと見せた。息ができなかった。泣くことしかできなかった。死亡診断書には何ひとつ確かなものがなかった。「推定死亡時刻は10月30日00時。ソウル龍山区(ヨンサング)梨泰院路179ハミルトンホテル脇の路上」
物静かで内向的だとばかり思っていたヒョンソさんの葬儀には、数百人もの友人が訪ねてきた。高校の友人から中学校、小学校、幼稚園時代の友人までもがやって来て、ヒョンソさんを見送った。友人たちはヒョンソさんに手紙を書いた。「今にも君がクラスに入ってきそうに思えるのに、君に会えないというのが信じられない…。私たちは君を忘れないよ。君もいつも私たちのそばにいてね」
数十年間会わずに過ごしてきた家族、些細なけんかで縁を切っていたホゴンさんの友人もみな、葬儀に訪ねてきた。ホゴンさんが抱っこすると泣いていたタヒョンも、葬儀後はホゴンさんのことをパパと呼ぶようになった。「ヒョンソが私と人をつないでくれたように思います。最後のプレゼントとして」。ホゴンさんは言った。
政府が設けた臨時焼香所には、名前も写真もなかった。ヒョンソさんが過ちを犯したわけでもないのに、名前すらも隠されることは防ぎたかった。あるメディアが犠牲者名簿を公開した時は、抗議する気は起きなかった。ホゴンさんがヒョンソさんのことを話すと、聞いていた友人は「そんなできた子がどこにいるんだ」と言った。そんな子だった。きちんと、こんなにいい子がいたのだという記録を残さなければならないと思った。
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何気ない話をしていても涙が
ホゴンさんは、仕事が休みの日には京畿道坡州(パジュ)の追悼公園にいるヒョンソさんのもとを訪れる。今まで仕事ばかりであまり話ができなくてすまないと、自分の息子として生まれてきてくれてありがとうとばかり繰り返す。ヒョンソさんが去った後、ホゴンさんの目元の涙の跡は消えたことがない。タヒョンがパパと呼びながら寄ってくれば涙が出る。週に2、3回に増やした家族の夕食の席で何気ない話をしていても涙が出る。毎日、寝る前に居間の電気を消せば、また涙が出る。薄暗い居間の壁にかかっている家族写真で、ヒョンソさんの顔だけが妙にはっきり見えるから。