5・18光州民主化運動のとき、全斗煥(チョン・ドゥファン)新軍部勢力がでデモに参加した市民を暴力団だとでっち上げ、三清教育隊に送っていたことが分かる文献が発見された。三清教育隊に連行された5・18有功者の一部は、青松(チョンソン)監護所にまで連行されていた。新軍部勢力が5・18有功者を組織的に三清教育隊に入所させたのかどうか、真相調査が必要だという指摘が出ている。
本紙の17日の取材の結果、1980年の5・18光州抗争後に、光州・全羅南道地域の43人の5・18有功者が三清教育隊に入所させられていたことが確認された。5・18の捜査を担当していた全南合同捜査団と警察は、5・18有功者を銃器所持者とみなしたり暴力行為と無理に関連づけたりして、三清教育隊での順化教育の対象者とした。これらの内容は、本紙が確保した光州警察署(現光州東部警察署)と全南合同捜査団がやりとりした通信文に書かれている。
全斗煥新軍部勢力は1980年8月、不良勢力の掃討を大義名分として「三清計画5号」を実施し、3万9742人を三清教育隊に入所させた。入所対象者の中には「全斗煥を誹謗した者、または虚偽事実の流布者」や「5・18デマ流布者」も含まれていた。A級は監獄に送り、D級は訓戒処分とした。しかし、B、C級と判定された人は全国25の部隊に分けられて収容され、4週間の順化教育を受けた。また、三清教育隊に連行された5・18有功者の一部は、順化教育後も再犯の恐れがあるとの理由から、改めて慶尚北道青松の保護監護所に連行された。
光州のKさん(1959年生まれ)も、5・18デモ参加者という理由で三清教育隊に連行された。1980年5月22日にデモに参加し、戒厳軍に殴られて怪我をしたKさんは、同年8月にソウルへ行った際に、麻浦(マポ)警察署の刑事たちに不審尋問を受けた。刑事たちは「光州から逃げてきた者」としてKさんを5日間拘禁し、「銃はどこに隠したのか」などと言いながら殴打した。
Kさんは8月12日ごろ、京畿道漣川(ヨンチョン)にある三清教育隊に引き渡され、4週間の遊撃訓練教育を受けた。その後、三清勤労奉仕隊に連行され、6カ月間にわたって政府による工事などに強制投入された。1981年12月2日に慶尚北道青松の第1保護監護所に移送されて拘禁されたKさんは、1982年11月16日の出所後、精神疾患を発症した。
Sさん(1959年生まれ、潭陽郡(タミャングン))は1980年8月に光州東部警察署に逮捕され、保安隊で取り調べを受けた。警察はSさんを「光州騒擾の羅州(ナジュ)方面の責任者で、銃器などを携帯し、入営を忌避した者」と分類し、9月18日に5・18の捜査を担当していた全南合同捜査団で「訓戒措置し、三清計画に回付」の決定を下した。Sさんは9月30日ごろに京畿道抱川(ポチョン)の軍部隊に連行された後、地獄のような三清教育隊生活を送った。Sさんは同年10月末ごろに京畿道のある部隊に移され、バンカー施設作業などを行っていたが、1981年10月末ごろに出所し、帰宅した。
5・18民主有功者遺族会のチョン・スマン前会長は、「5・18有功者を『暴徒』とした全斗煥新軍部勢力が、5・18以降、5・18有功者やデモ参加者を三清教育隊に連行した人権蹂躙(じゅうりん)事案について、真相調査が必要だ」と述べた。
一方、最高裁は2018年12月、全斗煥政権による三清教育隊の設置と運営の根拠となった戒厳布告第13号について、発令の手続きと内容のすべてが違憲・違法であり、無効とする決定を下している。