夫婦カウンセリングでは時折、意外な処方箋が出ることもある。別れるべきだ、そうしてこそ共に生きられる、といったものだ。すべての関係が、とにかくしがみついていれば救われるわけではなく、中には手放した時に初めてしっくりくることもあるという気づきだ。不快なたとえかもしれないが、これは2026年の朝鮮半島の状況を私たちが認めたくない以上に正確に表している。北朝鮮はすでに訣別を告げた。2023年以降、北朝鮮は韓国を別個の主権国家として扱っている。ここで注目すべきなのは公式名称だ。北は長年使ってきた「南朝鮮」を捨て、韓国を「大韓民国」と呼び始めた。北は韓国を正式名称で呼んでいるのに、韓国は今なお「北韓」と呼び続けている。
北を本来の国名である「朝鮮」(朝鮮民主主義人民共和国)と呼ぶのは、その体制を承認したり擁護したりすることを意味するわけではない。ただ、あるがままの事実を事実として述べるに過ぎない。ある国家を認めることと、その政権を好意的に捉えることは、全く別の問題だ。実際、すでに多くの論者が指摘しているように、韓国と「朝鮮」が交わしてきた数多くの公式文書において、互いの国号を並べて記載することは珍しいことではなく、むしろ一般的だ。名前一つが忠誠の試金石となり、自明の事実を口にしただけで不穏な存在として疑われる光景こそが、冷戦が制度ではなく私たちの思考様式として今なお生き延びていることを物語っている。その点において、チョン・ドンヨン統一部長官の問題提起は正しい。
もちろん、韓国の憲法が北を「朝鮮」と呼ぶことを阻んでいる。領土を規定した第3条、平和統一を義務として定めた第4条、そしてそれらに重なる国家保安法が相まって、「朝鮮」政府を「反国家団体」の領域に縛りつけている。ところが、ここでも韓国と「朝鮮」は立場が逆転している。「朝鮮」は2026年3月の憲法に領土条項を新設し、自らの領域を韓国との境界までと自ら限定した一方で、韓国は今なお朝鮮半島全体を自国の領土と宣言した条文を抱え込んでいる。さらに、改憲の必要性は誰もが承知しているにもかかわらず、相手陣営に勝利を譲りたくないという韓国の二極化した国内政治が、根本的な改革を妨げている。
まさにここに、政府主導のやり方の盲点がある。ある省庁が言葉を採用したからといって、パラダイムが変わるわけではないからだ。準備も整わないうちに争点を公論の場に投げかけると、それは政策ではなく、政争の弾薬になりかねない。名称を変更し、憲法を改正することは、上意下達できるものではなく、たとえゆっくりでも、苦痛を伴おうとも、市民が共に乗り越えなければならない民主的な合意の過程を必要とする。ある程度の社会的合意すらなければ、「朝鮮」と結んだものが何であれ、次の政権で崩れ去ってしまうからだ。
このあたりで、決まってドイツが引き合いに出される。だが、ドイツの道はもはやお手本とはなり得ない。ドイツと朝鮮半島の分断が同じ世界史的な亀裂に由来するのは事実だが、その性質は当初から異なっており、またその条件は最近さらに変わってしまった。加害国の分断と被害国の分断が同じであるはずがなく、何よりもドイツ人は同胞の胸に銃口を向けた戦争を経験していない。東西ドイツは最後まで互いを完全な主権国家として認めないまま、「特殊な関係」に固執した。それはドイツの条件から生まれた選択に過ぎず、条件が全く異なる東アジアが従うべき公式ではない。冷戦が幕を閉じようとしていた1989年の世界は、新冷戦が深まりつつある今日の世界とは異なる。一言で言えば、プーチンはゴルバチョフではなく、トランプはレーガンでもブッシュでもない。
もちろん、国名は始まりに過ぎない。肝心なのは、相手をありのまま、一つの主権国家として認めることだ。そのためには、二つの古い視点を共に手放さなければならない。一つ目は、南北をいつか必ず一つになる同族と見なす視点であり、もう一つは、互いを無条件に打ち倒すべき悪と見なす視点だ。いずれも平和につながるものではない。したがって、承認も、憲法改正も、「朝鮮」という国名も、「朝鮮」への贈り物ではない。持続可能で冷静な共存を心から望むなら、それは韓国が自分自身に与える贈り物だ。別れることに合意した夫婦だけが、ようやく(互いにとって)良き友人として残れるケースのように。