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[徐京植コラム]核兵器と「悪い予感」

登録:2022-10-14 07:45 修正:2022-10-14 08:28
//ハンギョレ新聞社

 夏が唐突に終わり、秋が来た。例年になく、寒々とした秋だ。体調が優れない日が続いて、一日延ばしにしているうちに、このコラムの締め切りが目前に迫ってきた。何を書くべきか。書きたいことがないわけではない。だが、どうにも心が沈んでなかなか書き始めることができない。

 正直に告白すると、もうウクライナの件はあまり書きたくなかった。今年2月、ロシア軍のウクライナ侵攻目前というタイミングで、私は「理想なき時代に正気を保つ」と題したコラムを書いた。今からおよそ8カ月前のことである。そこに、私自身の言うべきことはすでに言ったと感じている。だが、その後もこの欄のコラムを書くたびに、ウクライナ戦争に触れずにはいられなかった。戦闘が継続中であることはもちろんだが、この戦争によって、私自身も大きく揺さぶられ続けているからだ。70年余りの人生を通じて見てきた世界が、ここではっきりと大きく変わろうとしている。いうまでもなく、より悪い方向へ。

 従来の観点を大きく変更することに迫られたというより、すでに分かっていたこと、予感していたことが、次々に現実化している。私は、若い頃から悲観的な想像ばかりする傾向があり、ある人に、「あなたは地面に穴を掘って奥をのぞいてばかりいる」と評されたことがある。うまく言うなあと感心した。しかし、振り返ってみると、そのように悲観を語りつつも、心のどこかで、自分の悪い予感が裏切られることを内心かすかに願うようなところがあった。そう願うからこそ、あえて悪い予感を語るのである。

 ところが、過去数カ月を振り返ってみると、私の予感は、次々に現実化してきた。現実が、私の悲観的予測を追い越してしまう時がある。ロシアのウクライナ侵攻は長期化し、膨大な犠牲者、破壊、難民を生み出しながら、終息の見通しすら立たない。一地域の内戦状態をはるかに超えて、準世界大戦とも呼ぶべき状態が続いている。第二次世界大戦後の国際秩序を曲がりなりにも支えてきた国連は完全に機能不全に陥っている。プーチンがウクライナ東部4州の併合を宣言し、核兵器の使用すら現実味を帯びてきた。もちろん、米国が主導する西側勢力は、ソ連の崩壊以後、いやそのはるか以前から、勢力圏の拡大をはかってきた。ソ連崩壊時の国際的約束に反するNATOの東方拡大戦略は、ロシアにとって現実的な脅威であることも理解できる。西側が一方的な正義ではない。

 しかし、ナイーヴと笑われるかもしれないが、私はこう思う。プーチンが国家主義を叫んで4州の「ロシアへの統合」を推進するのではなく、「諸民族の平等を経て不可避の統合に至る」ことを目標に掲げたソ連社会主義の理想を護ると宣言していれば、言い換えれば、そこに西側の新自由主義理念を凌駕する、平和、人権、抑圧からの解放、といった人類普遍の理想の光がともり続けていれば、世界の人々の多くの支持や共感を集めていただろうし、状況は現在のようではなかっただろう。レーニンが主張したように、「大ロシア人の民族主義」を克服することが社会主義ソ連の理想を実現するための道筋であった。その「理想」は、ロシア人だけのものではなかった。全世界の被抑圧民族が、そこに光を見出し、恐ろしい犠牲を厭わず闘ったのである。朝鮮民族も例外ではなかった。

 その「理想」が裏切られ、捨て去られた。もちろん、ソ連時代の「理想」も、一皮めくればスターリン体制の鉄腕によって維持されていたことは否定できない。その鉄腕の支配を脱して自由を希求した大衆の、その希求そのものが誤りであったということは誤りである。だが、自由を希求する大衆のエネルギーで起こされたソ連体制の崩壊という結果が、いち早く西側新自由主義勢力によって思うままに簒奪(さんだつ)されたことも現実である。そして、スターリンの鉄腕に代わって、秘密警察KGB出身のプーチンが鉄腕を振るっている。結局、何が失われたのか、それは「理想」である。「理想」が失われ、鉄腕が生き残った。プーチンの主張は「大ロシア人の民族主義」そのものである。前線には極東地方の少数民族兵士が投入されているという。彼らに、どんな「理想」のために犠牲をしのべというのか?

 ヨーロッパでも、あるいは東アジアにおいても、数十年来封印されてきた核兵器が使用される時が来るかもしれない。私の悪い予感は、その時が近づいていることを告げている。人生が終わる前に、私は核兵器が使用される場面を目撃しなければならないかもしれない。どうか、この予感が外れますように。

 私たちに課せられた急務は、失われた「理想」を再建することである。ただし、旧来のままにではなく、新しい現実の中での困難な闘争を経た、新しい「理想」を。それは、もちろん容易なことではない。「長い道」の先のことだ。いま、私たちはその道を前にして、ともすれば立ち尽くそうとしているが、立ち尽くしている場合ではない。

 シニシズム(冷笑主義)が凱歌を上げ、「死の舞踏」を踊っている。これは日本だけの現象だろうか? どうやらそうではないようだ。前回のコラムで私は、「ウクライナもミャンマーもすべて急速に『陳腐化』されていく。私にできることは、『陳腐化』の暴力に抵抗し続けることでしかない」と記した。それに対して、「『陳腐化』していくのは当たり前だ。人は心が憤りや悲哀に憑りつかれたままでは生きられない。それでは、徐京植も結局プリーモ・レーヴィと同じ道を辿るしかないではないか」、そう反応した人物もいる。

 レーヴィの故郷イタリアでも最近の選挙で極右派が躍進した。他のヨーロッパ各地でも、トランプ支持者が横行する米国でも、事情は似たり寄ったりであろう。アウシュヴィッツの生き地獄から生還し、平和のための証言者としての責任を進んで背負い、最後には自殺した証言者の存在は、少しもこの人々の心を動かさないのである。厳粛とか、敬虔とか、謙虚といった感情すら呼び起こさないのだ。逆に、憤りや悲哀に取り憑かれた者の「自己責任」と言わんばかりである。「これでは、レーヴィが自殺したとしても無理はないな」。レーヴィはこのような人々によって自死に追いやられたのだ、と思う。レーヴィの証言が人類平和のためのものだったとすれば、「人類」はこのようにして、自滅の道を進んでいるのだ。

 「徐京植もレーヴィと同じ道を辿るしかない」と言うが、これは親切な忠告だろうか。私自身、自分もまた「レーヴィと同じ道」を辿るかもしれないことを自覚している。それを望んではいないが、そうなるしかないのなら、せめてレーヴィのように、人の心に奥深く届く言葉を遺したい。私がそう考えるのは、根拠のない憤りや悲哀に取り憑かれているからではない。世界の現実が、次々に憤りや悲哀を生み出しているからだ。「レーヴィと同じ道を辿るな」と言うのなら、その現実から目を背けよと言うのではなく、現実を、この現実の今にも抜けそうな底を、少しでも支える努力をともにすべきではないか。…しかし、このシニシストには、こんな言葉も届かないだろう。

//ハンギョレ新聞社

徐京植(ソ・ギョンシク)|東京経済大学名誉教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1062568.html韓国語記事入力:2022-10-14 02:37

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