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[寄稿]「罪と罰」の国際政治

登録:2022-05-15 21:48 修正:2022-05-16 10:32
ドストエフスキーは『罪と罰』で、人類の平和のためには“老婆”を殺してもよいという青年ラスコーリニコフとは違う、もう一人のラスコーリニコフをみせてくれる。高利をむさぼる金貸しの老婆を殺害した後、悩んだ彼は、家族のために身売りした女性ソーニャの前にひざまずき、その足にキスをする。「私はあなたにひざまずいたのではない。人類の苦しみの前にひざまずいたのだ」 
 
ソ・ジェジョン|国際基督教大学政治学・国際関係学デパートメント教授
1950年12月1日付「ニューヨーク・タイムズ」1面=ニューヨーク・タイムズのウェブサイトよりキャプチャー//ハンギョレ新聞社

 「7月初めの蒸し暑いある日の夕暮れ…」

 ドストエフスキーの小説『罪と罰』は、このように始まる。筋書は単純だ。主人公ラスコーリニコフが高利をむさぼる金貸しの悪徳老婆とその妹を殺す「罪」を犯し、その後自首して、シベリアへの8年の流刑という「罰」を受けるという内容だ。検察官の「罪と罰」の話だ。しかし、ドストエフスキーは、この骨組みに様々な人間の話を重ねていき、人間社会に対する深い省察を与え、深い質問を投げかける。人間社会でははたして何が罪なのか。誰が罪人なのか。罰とは何か。罰を通じて人間は救済を得られるのか。

 『罪と罰』は北朝鮮に対する政策にも登場する。レオン・シーガルは、彼の著書『米国は協力しようとしなかった』(原題:Disarming stranger: nuclear diplomacy with North Korea)で、米国の北朝鮮に対する政策を「罪と罰のアクセス手法」と命名した。米国政府の北朝鮮に対する手法が、検察官が「罪と罰」を扱うかのようにみえたためだ。米国は、北朝鮮は核兵器開発という「罪」を犯す悪党国家とみる固定されたイメージを持っている。したがって、強力な「罰」を通じて武装解除させるという解決策だけが残る。「(北朝鮮を)犯罪者として悪魔化し、武装解除するように圧力をかける」ことこそ、検察官の「罪と罰」だ。

 米国は、1994年の核交渉の妥結後、北朝鮮に軽水炉の完成まで3000万ドル分の重油を提供することにした。今振り返れば、とてつもなく安価な解決策だった。しかし、「罪と罰」の枠組みで交渉は破綻し、妥協の可能性が生じることはなかった。もはや国連の制裁決議だけが残り、「罪と罰」の枠組みはよりいっそう強固になった。「北朝鮮は国連決議に違反した罪を犯したので、制裁という罰を受けなければならない」

 統一部長官候補のクォン・ヨンセ氏は、「北朝鮮に対する政策は、リレー走にならなければならない」としながらも、「北朝鮮非核化」に固執している。1990年代初めから一貫して推進されてきた「朝鮮半島非核化」を継承しないということだ。

 朝鮮半島の核危機は、1950年11月30日に始まり、今もなお続いている。その歴史を知らないのであれば、ニューヨーク・タイムズの1950年12月1日付を見るといい。「大統領、必要であれば朝鮮に原子爆弾を使用すると警告」。1面トップ記事のタイトルだ。何らかの秘密文書を暴露したものでもなかった。「核兵器の使用は、常に積極的に考慮している」。その前日、米国のハリー・トルーマン大統領が記者会見で公にした発言を報じたものだった。それ以降、今日まで米国は北朝鮮に対する核攻撃能力と計画を維持している。

 北朝鮮が核兵器を開発し、朝鮮半島の安全保障の構造は「相互抑制」になった。米国が核兵器で北朝鮮を抑制すると同時に、北朝鮮も核兵器で米国を抑制する「恐怖のバランス」の構図になったのだ。この状況のもとで、韓米両国は、軍事力で北朝鮮の核兵器を無力化させるために、常に努力している。先制攻撃能力を含む韓国の「3軸体系」が代表的で、米国も、先制核攻撃能力を含むミサイル防衛と先制攻撃能力を絶えず開発・配備している。北朝鮮も後れを取るまいと先制攻撃能力を開発しており、先制核攻撃の可能性も示唆している。もはや朝鮮半島は「罪と罰」を云々するほどのんきな状況ではない。

 尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の言うことは正しい。「北朝鮮の非核化は、朝鮮半島に持続可能な平和をもたらすだけでなく、アジアと全世界の平和と繁栄にも大きく寄与するもの」だ。しかし、「北朝鮮の非核化」だけを叫ぶ反知性主義では、平和も繁栄も達成できない。「世界の市民すべての自由と人権を守り拡大」するという定規を突きつけ、北朝鮮にまた別の「罪」を問い、追加の「罰」を与えるというのであれば、平和も繁栄も危うくなりうる。

 政府の権力を委任された人々は、人類の平和のためには“老婆”を殺してもよいという青年ラスコーリニコフではない。ドストエフスキーは『罪と罰』で、人類の平和のためには“老婆”を殺してもよいという青年ラスコーリニコフとは違う、もう一人のラスコーリニコフをみせてくれる。高利をむさぼる金貸しの老婆を殺害した後、悩んだ彼は、家族のために身売りした女性ソーニャの前にひざまずき、その足にキスをする。

 「私はあなたにひざまずいたのではない。人類の苦しみの前にひざまずいたのだ」

 日常生活で安全を心配する女性、世間に出ること自体が不安な障がい者やマイノリティー、作業場でけがをしないだろうか、死なないだろうかと心配する労働者、明日から出勤しなくていいと言われるのではないかと不安な非正規職、コロナ禍のために不安なすべての人々の前にひざまずいた安全保障政策を見てみたい。

 検察官の「罪と罰」ではなく、ドストエフスキーの『罪と罰』を夢見て、ここで筆を置く。

//ハンギョレ新聞社

ソ・ジェジョン|国際基督教大学政治学・国際関係学デパートメント教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1042918.html韓国語原文入力:2022-05-15 18:42
訳M.S

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