今日は12月27日、今年も残すところあと数日となった。毎年この時期になると自然に過ぎた1年間を振り返ることになる。当然、そのことはこのコラムなど、自分の書く文章にも反映する。文章を書くことは間違いなく私にとっての喜びだが、同時に苦しみでもある。「苦しみ」と言うのは、ほとんど希望らしきことを語ることができないからだ。
およそ一年前、私はこのコラムに「世界も日本も…崩壊過程に立ち会う日々」と題する一文を書いた。「社会の全域で何かが急速に崩壊している。(中略)事実に対する実証、言葉への信頼が崩壊し、知性と理性が崩壊したのだ。したがって事実認識と論理の共有が土台となる対話や議論自体が崩壊しているのである」。過去1年間、この崩壊過程はさらに進んだ。
コロナ禍は日本では昨秋以来、鎮静化の兆しを見せている。しかし、これを「希望的」に語ることはできない。韓国でも欧米でも、感染は拡大している。さらに南アで報告されたオミクロンという変種株が世界中に急速に拡散しつつある。日本が近々第6波のパンデミックに襲われることは確実であろう。しかし、「苦しみ」は自分自身と自分が住む社会が脅かされているからだけではない。南アをはじめ発展途上国からはワクチン供給の世界的な不公平を批判する悲鳴のような訴えが聞こえてくる。WHOも、この点を繰り返し指摘している。しかし、いわゆる先進国側は、その国民多数も含めて、このような非人道的な不平等にほとんど無関心である。不平等と言えば、世界上位1パーセントの超富裕層の資産が今年、世界全体の個人資産の37.8パーセントを占めたことがわかったという。(12月25日共同)。私たちは人類史の過去に類例のない極端な不平等時代に生きているのだ。
人間たちの「野蛮性」をこれでもかと見せつけられている思いである。いや、これを「野蛮」と比喩することは間違いだろう。「野蛮」だからではなく、むしろ「文明」自体の中にそのような「野蛮性」が組み込まれているのである。そう考えている私に、どうやって希望を語れというのか。それでも私が執筆をやめない理由は、これからの困難を生きていく若い人々に多少ともマシな社会を残す責任があると思うからだ。
だらだらと続くコロナ禍のために移動がままならない。友人たちとも会うことができない。リモートで連絡できるという人たちがいるが、私はそうは思わない。人間同士に必要なのは情報だけではない。「好き」という感情を「嫌い」という逆の言葉で伝えることは私たちの日常に普通にあることだ。言葉にすれば同じ情報でも、それを述べる人の声や顔の調子、また文脈によって正反対の意味にもなりうる。このような非言語的なコミュニケーション領域が芸術の存在理由でもある。リモート・コミュニケーションでは、この部分つまり「人間」への想像力や共感力が必然的に痩せ細るほかない。
想像は具体的でなければならない。感染者数や拘束者数といった数値化され軽量化された情報は、自分は何かを知っているという誤った自己満足を与えるのみで、むしろ想像力を阻害する。例えば、ベラルーシの女性作家スベトラーナ・アレクシエーヴィチは、いまドイツに亡命中である。その日常はどんなだろうか?夜更けてひとりアパートに帰った時、どんな不安と孤独が彼女を襲うのか。あるいは、民主化を求めるデモに参加したため軍人に殴り殺されたミャンマーの若者の母親は、いまどんな思いでいるのか。「不法滞在」の嫌疑で日本の入管当局に拘束され、極度の体調不良を繰り返し訴えたにもかかわらず取り合ってもらえないままついに死亡したスリランカ人女性は、どんな苦しみの声を漏らしただろうか。今夜の宿所もなく、食べ物を購う金銭もないままに街路に佇んでいる人たちは、どんな寒さを感じているのか。…このようなことを一つ一つ想像することには限りがある。何よりそれは、想像する者にとって苦痛だ。その苦痛のために証言者たちは石のように沈黙するか、そうでなければ原爆被災詩人・原民喜やアウシュヴィッツ生還者プリーモ・レーヴィのように、自殺の道を選ぶことになる。だが、だからと言って私たちはその苦痛を回避して良いだろうか?これは、私たちに突きつけられた究極の倫理的問いである。
振り返ってみるとこの一年間に私が足を運ぶことができたのは、岩手県立美術館、長野県立美術館、それに沖縄の佐喜眞美術館くらいである。私はこれまで幾度となく佐喜眞美術館に足を運んだ。2003年のこと、パレスチナのガザ地区を拠点に困難な活動を続ける人権法律家、ラジ・スラーニ氏が来日し、あるテレビ番組のため私と対談した。その収録場所に選んだのが、佐喜眞美術館の「沖縄戦の図」の前であった。パレスチナで続く理不尽な人権弾圧、その年に勃発したイラク戦争など、きびしい主題を論じ切るため、私が丸木夫妻の作品に力を借りたのである。
「反戦画」の歴史は18世期末、ゴヤの版画シリーズ「戦争の惨禍」に始まる。宮廷画家であったゴヤは、弾圧を恐れながらも、スペインに侵入したナポレオン軍の暴虐をひそかに銅版画に刻んだ。それまで国家や教会に従属していた画家の人格が個人として独立し、国家に抗して戦争を描きはじめたのである。ドイツの画家オットー・ディックスは第一次世界大戦に兵卒として従軍した経験に基づき、毒ガスや機関銃などの新兵器が投入された総力戦の惨状を描いた。「戦争」(1929-32)はキリスト教の伝統的祭壇画の形式をとっているが、イエス・キリストや聖母が描かれるべき画面中央に砲弾で吹き飛ばされたまま腐敗していく兵士の死骸を配している。スペイン内戦時にピカソは、ファシスト勢力による史上初の戦略爆撃に抗議して「ゲルニカ」を制作した。戦略爆撃とは敵の戦意をくじくためとして民間非戦闘員への無差別爆撃を肯定する戦略思想である。それが後の日本軍による重慶爆撃を経てヒロシマ・ナガサキの原爆投下に繋がった。
このような反戦画の歴史における重要な里程標が丸木夫妻の「原爆の図」と「沖縄戦の図」である。それらは、この2世紀の間に戦争そのものが国家を挙げての総力戦・殲滅戦に変容し、核兵器をはじめとする無差別大量殺戮兵器が使用される段階に至った現実に照応している。丸木夫妻の画業の重要な達成は、まず「原爆の図」シリーズで核兵器による大量殺戮戦争という新しい現実に正面から取り組んだこと。「原爆の図 からす」ではナガサキにおける朝鮮人被曝者を、「南京大虐殺」では文字どおり中国戦線での日本軍による残虐行為を取り上げて、「被害」から「加害」へと認識を深化させ、さらに、「被害」と「加害」の重層性という倫理的難問に切り込んでいることである。
たとえば「沖縄戦の図」シリーズの「集団自決」(1983)という作品には、鮮血を流して折り重なる犠牲者たちとともに、鎌を振り上げる人物の黒い姿が描かれている。絵を見るものは知らず知らず被害者に同一化して、自らを無垢の傍観者の位置に置きがちになるが、次の瞬間、この悪鬼のような人物は誰なのかという問いに遭遇する。おそらくこの人物もまた島の一般住民であり、自らが鎌を振り下ろしている犠牲者の父か兄ではないのか。
「久米島の虐殺(2)」(図)には、首に縄をかけられて引きずられる痩せこけた人物が描かれている。その下半身に幼い子供がしがみついている。犠牲者谷川昇さんは本名を具仲会(ク・ジュンフェ)という朝鮮人である。「いかけ屋」(古金属の回収や修理をする業)として、つましく生計を立てていた。だが、一般島民の日本軍への通報によって「スパイ」の濡れ衣をきせられ、日本人である妻と5人の子もろとも無残に殺害されたのである。沖縄地上戦の最中、陣地や待避壕の位置を米軍に知らせる「スパイ」がいるという疑心暗鬼が蔓延し、朝鮮人である具さんが疑われたのだ。具さんの首にかけた縄を引いているのは、民間人に偽装した日本軍警備兵である。釜山出身だというこの一人の朝鮮人は、どのような経緯で日本の沖縄まで流れてきたのか。沖縄人女性と所帯を持ち子供を育てるのにどんな苦労と喜びがあったのか。殺害される瞬間、どんな無念を噛み締めたことか。最後に朝鮮語なまりの日本語で、妻や幼い子の名を呼んだだろうか?故郷釜山の風景が脳裏をよぎっただろうか?
戦争とは、こうした一つ一つの無念、憤怒、絶望、悲嘆の集積である。それが「数値化」できるのか。このような苦しい倫理的省察が丸木夫妻の画業には認められる。戦争をロマン化することで個々人の責任を不問に付す数多の戦争画、たとえば有名な藤田嗣治の「サイパン島同胞臣節を完うす」(1945)などと決定的に異なる点だ。
韓国の人々はこの具仲会という人物を知っているだろうか。彼の死は私たち朝鮮民族が経験した苦い歴史の重要な1頁である。コロナ禍のわずかな隙を縫うようにして再訪した沖縄で、改めて重い課題を噛み締めることになった。
徐京植(ソ・ギョンシク)|東京経済大学名誉教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)