26日午後、コリアタウンがある東京の新大久保駅で「義人李秀賢(イ・スヒョン)さん」(1974~2001)の21回目の追悼式が行われた。新型コロナウイルスの感染拡散によって、参加は最小人数のみ。李さんの母親シン・ユンチャンさん(73)も、昨年に続き今年も映像であいさつを伝えた。シンさんは「毎年1月に新大久保に行けば息子に会えるような気がして、日本行きを指折り数えて待っていた」と語り、残念だと述べた。
2001年1月26日。日本で留学生活を送っていた李さんは、アルバイトを終えて家に帰る途中だった。夜7時15分、新大久保駅の線路に人が転落した。列車が駅に進入しはじめた瞬間、李さんと日本人写真家の関根史郎さん(当時47歳)はその人を助けようとして線路に飛び下りた。彼らは列車を避けることができず、全員が犠牲になるという悲劇的な事件となった。不慣れな異国の地で人のために犠牲となった李さんの行動は、日本人の心を揺さぶった。追悼の波が日本全国に広がった。各界各層から寄付金が集まり、李さんの名を冠した「LSHアジア奨学会」が設立され、これまでに日本で留学生活を送るアジアのおよそ1千人の学生に奨学金が支給された。
時が経っても彼を記憶している人は多い。2019年1月26日、東京で過ごしていた私は、駐日韓国文化院の行事に参加した。日本の中村柊斗監督が制作した李さんについてのドキュメンタリー映画『かけはし』を見るためだった。李さんの日本留学時代の足跡や事故の後日談などが語られている。映画を見ていると、あちこちからすすり泣きが聞こえた。上映会には300人あまりが参加し、大半が日本人だった。18年が過ぎていたが、依然として彼を記憶に刻もうとする温かい心が集っていたのだ。
その日は李さんの母親のシンさんも参加していた。シンさんは映画を見に来た人たちに感謝の言葉を述べが、通訳が要らないほど日本語が達者だった。息子の死を無駄にしたくないとの思いから18年をどのように生きてきたのか、達者な日本語から察せられた。いつも一緒だった父親のイ・ソンデさんは健康上の理由で日本に来られず、結局2019年3月に持病のため亡くなった。
李さんの人生を振り返っていると、ふとあの日共に犠牲になった関根さんはどんな人だったのかが知りたくなった。あちこち調べても情報は少なかった。関根さんは1953年、神奈川県川阪市に生まれ、大学で写真学を専攻し、写真作家として活動していた。彼の写真集には山や花、子どもが特に好きだと記されている。当時は70代の老母と共に暮らしていた。事故直後、シンさんが関根さんの母親に電話をかけ、哀悼の意を伝えたという新聞記事が残っている。
日本で「新大久保の犠牲」をモチーフにした小説と映画があることを知った。韓国でも有名な作家、吉田修一の『横道世之介』と、これを原作として沖田修一監督が制作した同名の映画だ。内容は彼らの人生を直接扱った実話ではなく創作だが、関根さんはこのような人だったのではないかと想像させる部分が出てくる。「いまだに事故のことをよく想像するんです。あの子はなぜ線路に飛び下りたのだろうって。あの子はきっと助けられると思ったんでしょうね。『ダメだ、助けられない』じゃなくて、その瞬間『大丈夫、助けられる』と思ったはず」。小説に出てくる横道の母親の書いた手紙の内容だ。
李さんと関根さんがどのような人だったのかは正確には分からないが、彼らの普段の暮らしに対する態度が危機の瞬間に本能的に出たのだろうと推測する。記憶すべき人を記憶し続けることは大切だ。彼らが去ってすでに21年が経っている。
キム・ソヨン|東京特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )