私は旅行社の旗のようによく目立つ人間だ。同好会の集まりで「マロニエ公園、イ・ミョンソクの前で集合」と約束すれば、新入りもすぐ見つけてやってくる。友人によると、その友人も私と一緒に歩いている時は実感できていなかったそうだ。ところがある時、道の向かい側から私を見たところ、モーセが紅海を真っ二つに割ったように、道行く人々が私とすれ違うやいなや一斉に振り返って見つめていたとか。韓国人は固定観念が強いからではないか、とも考えた。しかし、ニューヨークや香港のように様々な人種や変わった人たちが多い場所に行ってから、結論を下した。全世界の未就学児童たち、すなわち「人をそんなふうに見てはいけません」という教育を受けていない子どもたちは、私をじろじろ見つめる。
人間旗には長所と短所がある。地元に食堂ができたのだが、開業6カ月にして初めて行ってみた。「いついらっしゃるのかと思ってましたよ」。また6カ月後に行った。「まあ、お久しぶりですね」。そのようにして、常連になりやすい。フリーマーケットで物を売ったり、子どもたちに講義したりする時は、注目を集めやすい。何かを学ぶ時は、講師が「最初にやってみたい人」と言えばまず手を上げる。黙っていても手を上げているのと同じだからだ。なので、悪いことはできない。「近ごろ公園で変な男が絵を描いてるけど?」「ああ、その人、先週水原(スウォン)の夜市で見ましたよ」
人が平凡でない外見に出会ったときの反応にはパターンがある。南大門市場で「すみません、ククス(麺)2つください」と言うと、おばあさんが「あらあ、韓国語が上手だね。どこで学んだの?」と言う。「私、韓国人です」「冗談でしょ、私が何十年この商売やってると思ってんのさ」。不動産屋がすべての契約を終えてから、あえて聞いてくる。「ところで、どんなお仕事なさってるんですか?」 物書きだと言うと「ああ、芸術家なんですね。どうりで」。人は誰かに出会うと、本能的に自分の持っている箱の中に分類しようとする。不思議なものは「外国人」「芸術家」のような箱に入れれば、それなりに安心するようだ。しかし、どこにも入れる場所がないと恐怖を感じる。電車の中で長髪の私を追いかけてきて、顔を見た子どもたちが叫んだ。「パパ、女の人にひげが生えてる!」
以前、在外同胞の友人がこのような話をしていた。「韓国に来て本当にうれしい。誰も私を見つめないからね」。私はそっけなく言った。「私は韓国でもよくじろじろ見られるよ」。彼が聞き返した。「君はそういう時に脅威を感じたことがあるかい?」「全くないわけではないけど、むしろ安全でもあるんだ。スリも私には手を出さないだろうよ」。私の冗談に、友人は苦笑いした。だが、私も海外を回って少しずつ悟った。弱者であるマイノリティの外見をもった人が、スキンヘッドの人たちがちらちらと横目でにらむ路地を歩くときの気持ちがどんなものかを…。そして先日、米国のアトランタで4人の韓人女性が殺害された時は、大変すまない気持ちになった。その友人はその町で育ったのだ。
世の中には、本人が望もうが望むまいが目立つ人々がいる。遊び場の隅に座る肌の色の濃い子ども、ハイヒールとスカート姿の男子生徒、車椅子に乗ってクラブに来た人、全身タトゥーに覆われた体で水泳教室に来た女性…。ある人は彼らを不快に感じ、目の前から消え去ることを願い、群れの力で追い払ったりもする。なぜかと聞けば、変な姿をしているから変な行動をするだろうという、変な理由を挙げる。
見慣れぬ外見に対する本能的な不安は理解する。しかし、それを乗り越えるのが文明だ。その文明が危ういから、目立つ者同士の連帯が切実に求められている。私たちのような「人間ネオンサイン」ともいえる人たちは、少し違って見えるからという理由で誰かが危害を加えられないよう、互いに見守っていく。そして変わった外見がもっと増えて、世の中の視線を分散させてくれることを歓迎する。参加したければ入会願書は必要ない。こんな格好で出かけてもいいのだろうか、という格好で出掛ければいいのだ。
イ・ミョンソク|文化批評家 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )