3月27日はミャンマーでは「タマドの日」だ。タマドとは軍を意味するので「国軍の日」ということになる。第2次世界大戦終盤の1945年3月27日に、アウンサンのビルマ独立軍(BIA)が、当時ビルマを占領していた日本軍に対する攻撃を開始した日だ。
だがアウンサンは、1941年にビルマ独立軍を結成した時に日本の助けを受けた。30人の初期の同志たちは、中国の海南島で日本軍に訓練された。アウンサンらは大東亜共栄圏を標榜して太平洋戦争を引き起こした日本を利用して、英国から独立しようとした。ビルマ独立軍は日本軍とともにビルマに進攻した。まもなくアウンサンらは日本の敗戦が確実になると、銃口を日本に向けた。夷を以て夷を制すとの意をもつ「以夷制夷」のビルマ版は、「ビルマ連邦」の独立と建国の対外戦略の基礎であった。
違いは認め、共同利益を追求することを意味する「求同存異」もある。135の少数民族がいるミャンマーは、実は英国の植民統治が作った産物だ。英国の人類学者エドマンド・リーチは「現代の政治地図の上に表示されたビルマは、自然な地理的あるいは歴史的実体ではなく、地図製作者たちの小説」であるとし「19世紀末の英帝国主義の武力外交と行政的便宜の創造物」だと指摘した。周辺の少数民族は、第2次世界大戦の当初から英国の側に立った。ビルマ族に対する少数民族の歴史的確執に、英国によるビルマ族牽制が加わった結果だ。
アウンサンは、建国の過程で確執を抱える少数民族とパンロン協定を結び、ビルマ連邦を創設した。まずシャン、カチン、チンの3つの主要少数民族地域に自治を許可し、残りの少数民族にも順次自治を約束した。
75年が過ぎた今、アウンサンの後輩であるミャンマー軍部は、彼の娘アウンサンスーチーを再び逮捕した。民主主義を求める市民が軍部に虐殺されるミャンマーの転落は、以夷制夷と求同存異という戦略が崩壊する過程だった。建国直後、パンロン協定の原則は失われ、少数民族は武装闘争に立ち上がった。少数民族との内戦の鎮圧により軍部が勢力を拡大し、クーデターで権力を握り、独裁政権となっていった。まず求同存異が崩壊したのだ。
以夷制夷は、米国と中国がミャンマーをめぐって互いの関係を規定する戦略となった。ミャンマーは軍部政権以降、中国べったりとなった。ベトナム戦争の終戦後、米国が対中国封鎖を解き、東南アジアへの介入を放棄すると、ミャンマーは「ビルマ式社会主義」という名目の下、完全に一党独裁孤立路線へと転換した。中国のみを唯一の対外窓口として交流を行った。米国もミャンマーを中国の影響圏として認めた結果だ。
2007年以降、米国は中国の台頭を防ぐ「アジア回帰」戦略を標榜し、ミャンマーへの介入を再開した。軍部も、スーチーの民間勢力と妥協して部分的に民主化を成し遂げ、米国と国交正常化を実現することで、求同存異と以夷制夷の原則を復活させるかのように見えた。しかし、2017年のロヒンギャに対するミャンマー政権の弾圧と、それをスーチーが擁護したことをきっかけに、二つの原則は再び崩れた。しかもスーチー政権は、軍部政権時代に始まった20の少数民族との平和交渉および休戦協定を御破算にした。国際的信頼を失ったスーチーは中国に接近した。これはミャンマーをめぐる米中の地政学的競争を加熱させた。
クーデター後に無力化したスーチー政権に代わる臨時政府を標榜する「連邦議会代表委員会(CRPH)」は、少数民族との反軍部連帯闘争を模索している。クーデターに反対する市民の間からは、ロヒンギャ問題など、これまでの少数民族の冷遇と弾圧に対する自省の声も出ている。
だがCRPHについては、米国などの西欧諸国の反応はまだない。米国と中国いずれも、軍部とスーチーの間で様子見しているためだ。軍部はクーデター以降、アリ・ベンメナシェというイスラエル系ロビイストを前面に押し立てて、親米反中のシグナルを米国に送っている。スーチー側もまた、少数民族や軍部に代わる新たな政権の問題について公式の立場を示していない。おそらく国民民主連盟(NLD)内部で、少数民族問題などをめぐる保革対決などの内部の軋轢や、主導権争いがあるものと推察される。
ミャンマー危機の解決策はあるのか? ある! 軍部に代わりうる民間勢力の形成だ。ミャンマー内部で少数民族をも含む、代表性のある勢力を作らねばならない。そして、米国と中国がこれを認めることに合意せねばならない。ミャンマーが求同存異と以夷制夷の戦略を再び確立する過程である。
覇権国の貪欲と対決を前にした時、弱小国の運命は苛酷なものだ。理想を胸に抱いて、商売人のように現実と取り引きせねばならない。
チョン・ウィギル|国際部先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )