横断歩道の前であるカップルが一つしかない傘を開く。ペアルックのTシャツのように揃いの黄色いマスクをしたまま見つめ合っていた二人は、なかなか歩き出せない。ちょうど夜9時を過ぎたからだ。よく行っていたフランチャイズのカフェは早めに店じまいしてしまい、行きつけの飲み屋は客を受け入れない。朝5時まで一般飲食店、休憩飲食店(アルコール以外の飲み物など、簡単な飲食物を提供する飲食店)、製菓店内での飲食は禁止! 二人が踵を返して地下鉄の駅に下りていってからは通り過ぎる人もいない。30年以上も弘大前の駐車場通りを見ているが、うら寂しいと感じたのは初めてだ。
日が昇れば働き、日が暮れれば早々に床につく農村とは違い、この街の夜は昼よりも明るく、熱く、うるさいことで有名だった。思いっきり食べてはしゃぎ、歌い、こころゆくまで愛し合う不夜城。しかし、2020年が明けてからずっと、世界中を襲っている新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、ここにも夜があり、静寂があり、孤独があることをあらわにした。
ディストピア映画において、エクストリーム・ロングショットで登場する都心の廃墟は、このようなものだろうか。ゾンビでも飛び出してきそうな暗い商店街を一人で歩いた。雨粒が両目の下に当たり、涙のようにマスクへと流れ落ちた。
6度目の大量絶滅がすでに始まっていると主張する科学者は少なくない。5回までの大量絶滅は、火山の噴火や小惑星の衝突のような天災地変から始まったが、6回目の大量絶滅の原因はまさに「人類」だ。生物種の多様性が広範に、短い間に減少するように、人類が地球を壊しているのだ。エドワード・ウィルソンは、大量絶滅を防ぐために「地球の半分」を人間の手の届かない保全区域にしようとまで提案している。生命の基盤を守ろうというのだ。
弘大(弘益大学)正門を背にして坂を下りる。ネオンサインの看板がぽつりぽつりと光っている。サムギョプサルと焼酎で夕食を済ませた人々が、炭火焼肉の店の前で輪になっている。最後の客なのだ。昨冬だったなら、向かい合ってタバコを吸いながら言葉を交わしたり、生ビールで口直しでもしようと周辺の店を探したのだろうが、今日は違う。誰からともなく急いでマスクをして傘を広げ、散っていく。蛍光灯を消した店では二人の店員が向かい合い、テーブルに残った食べ物や食器を素早く片づけていく。早々の店じまいはまったくうれしくない。
「台風はどうしてこんなにしょっちゅうやって来て、梅雨はどうしてこんなに長いんだろう」
古株の店員が天気に文句を言うと、新入りの店員はソーシャルメディア(SNS)にアップされたカードニュースの文章で答える。
「梅雨じゃなくて、気候変動ですって」
「気候変動?」
「変わったんですって。太陽ギラギラの夏は、もう来ないかもしれませんよ」
人類の活動によって発生する気候変動は、大量絶滅の具体的な兆候だ。大気科学者のチョ・チョンホの主張によると、1万年の間に地球の温度は4度上がったが、産業化後わずか100年で二酸化炭素濃度の上昇により1度も高まった。
クリス・ジョーダン監督のドキュメンタリー『アルバトロス』は、人類の活動が地球に及ぼす悪影響を端的に見せてくれる。死んだアホウドリ(アルバトロス)の腹を裂くと、たくさんのプラスチックの破片が出てきた。膨大な量の海洋ゴミが北太平洋の還流で発見されているが、その半分以上が自然分解不可能なプラスチックだ。海水面に漂うプラスチックを餌と思って飲み込み、災難に遭ったのだ。
地球は変わった。ただただ人類のための惑星へと! 人類のみを利するために都市を拡張し、道路を通し、川を塞ぎ、森を無くした。地球の深刻な危機を、乱暴な独走を繰り返してきた人類のみが知らなかった。知っていながら知らないふりをしたり、勘違いだと言い張ったりした。仕方なく大量絶滅と気候変動を認めても、独走は不可避だという言い訳をした。近代文明を支えるためには止まることはできず、止まってもいけないというのだ。競争に勝ち、より早く、より多く、より大きくという欲望は、生存の問題を超え、信仰とされたり、人間の本性だとまで強弁された。
9月3日現在、COVID-19により、世界218カ国において2570万人あまりの患者が発生し、85万人あまりが命を落とした。国内の状況は確定患者が2万644人、死者が329人だ。8月30日から9月6日まで、首都圏は強化された「社会的距離措置(ソーシャル・ディスタンシング)」レベル2を実施している。レベル3への引き上げを防ぐための必死のあがきだ。
レベル2.5を実施して何日も経っていないのに、不便で息苦しいだけでなく「コロナブルー」になったという声まで聞こえてくる。いつもの仕事ができず、いつも行っていた場所に行けず、会っていた人たちに会えないのだから、慣れないし、つらいのも当然だ。しかし逆説的にも、近代以降初めて、バラバラになって立ち止まり、考える余裕が強制的に生じた。
立ち止まってようやく見えはじめ、ついに聞こえた。貧しくて弱く病んだ人々の瞳、消滅が目前だと言われ無視される地方と農村と稲作と共同体の風景、多数の横暴に立ち向かう少数の声! これまでの人類の生産と消費のあり方に対する本質的な反省がなければ、伝染病の世界的大流行(パンデミック)はCOVID-19以降も再び訪れるだろう。地球をこれ以上破壊せず、再生させるために、私たちは何をどうしていくのか。
SARSとMERSを経てCOVID-19まで、コロナウイルスから始まった人獣共通感染症のまん延は、人類が野生動物と適切な距離を保てなかったために起きた。霊長類生態学者のキム・サンハが主張するように、「野生動物」という単語を思い浮かべる時は、棲息地にも必ず目を配らなければならない。棲息地を奪いつつ侵犯してきた人類の活動は、野生動物を窮地に追い込み続ける行為だった。
人と人との距離も問題だ。ソウルをはじめとする大都市は過密が基本だ。家の外に出た瞬間から人と出くわさないわけにはいかない。数千人が同じエレベーターを利用し、数万人が一つの競技場に集まることもよくある。狭い地域に多くが集まって暮らしているため、すべての空間が人間中心に精密に管理されている。野原の水たまりや川辺の湿地のように、自然生態系の保全にとって重要な場所が真っ先に「遊んでいる土地」扱いされ、姿を消した。
より遠くへ、より多くの人や物を、より早く運ぶ競争も熾烈だった。そのあり方が生んだ最高の発明品たる飛行機は、ウイルスを最短時間で地球のあちこちに伝播する道具となった。COVID-19で非接触の日常が続くと、モバイルによる接続が隆盛した。インターネット書店は「朝注文、夕方配送」を競って自慢した。しかし、このような非対面快速サービスは、消費者の目には見えない他人の犠牲を担保とする。当日配送が可能となるためには、注文した本を選び、包装し、配達する手が休みなく動いていなければならない。休むことが不可能な手だ。
過密なところで猛スピードで生きていると、自分以外の存在に気を配る余裕はない。自分さえ安全なら、自分さえ便利なら、自分さえ楽しいなら、他の存在の生死や境遇など関心の外なのだ。
ワンルームマンションが立ち並ぶ路地にさしかかる。コンビニやコインランドリー、インターネットカフェや軽食屋があちこちに立っている。わずか1年前は、始業と同時に上京した学生たちで路地全体が明るかった。邂逅を喜ぶ挨拶や真摯な悩みや楽しい冗談が店の内外を流れ、やがてワンルームマンションにまで運ばれて行ったりしたものだ。しかし、今日は顎を上げていくら見回しても、蛍光灯を灯した部屋は一つ二つのみ。対面講義がオンライン遠隔授業に変わったため、学生たちが上京していないのだ。近づいてみると、廃業して中ががらんとした店が一軒また一軒。コンビニの店主が舌打ちをする。
「1学期はなんとか持ちこたえたんですが、2学期までこのザマなんだから、お手上げですよ。家賃を払う日はきっちりやって来るのに、学生たちが戻ってくる日は決まってないですからね。どんな豪傑でも持ちこたえられませんよ。きつくて死にそうだ」
COVID-19で騒々しい春に蟾津江(ソムジンガン)を歩く機会があった。2時間ずっと川沿いを歩いたのだが、反対側からやって来る人はいなかった。道を歩いていて頻繁に立ち止まった。鳥の鳴き声を聞いたり、柳の群落地の新緑を写真に撮ったり、長い舌をべろべろさせる牛の糞のにおいを嗅いだり、畦道に寄り道して幼い苗を撫でたり。農村では毎日出会う存在だが、都市では交わることが難しい。人だけでなく家畜や木、穀物までもが村を成し、共に生きる隣人だという思いがした。本を書くために2年あまりよく会っていた農夫は、稲を田の人と言い、木を森の人と呼んだ。その理由をようやく悟って、川辺の村はよりいっそう美しかった。
夏の水害で蟾津江の堤防が決壊した時、私は春に出会った生命の安否を心配し、悲しかった。万人の苦痛を越え、万物の苦しみを私の文章に写し取りたかった。工場式畜舎の鶏や豚たちへと心は飛んだ。彼らには平穏な棲息地が一瞬も許されず、生まれてから死ぬまで、ひたすら食材として扱われている。近代文明のシステムだから仕方がないという言い訳は、現在を変えることはできないという絶望から生まれた諦めだ。その諦めがCOVID-19を作り出し、大量絶滅を引き寄せた。
確定患者が減れば、ソーシャル・ディスタンシング2.5は終わり、強制も消え去るだろう。その後、私たちの日常はどうなるだろうか。過密と猛スピードの日々に、再び慣れてしまうのだろうか。強制的に立ち止まっている間に得た悟りを基礎として、次元の異なる自発的な停止を試みるだろうか。
散策の喜びと自転車の趣はKTXや飛行機の便利さでは代えられない。異なる速度で異なって進んだ時にのみ、異なる美しさに出会う。より早く行くことができても、より多く得ることができても、より大きく作ることができても、共に生きる隣人の事情に気を配り、適切さを保つこと、彼らと共に悩みを分かち合い、幸せを見つけること! これこそチャン・イルスンに始まり、キム・ジョンチョルへとつながる「人と生命を慈しんで生きよう」という歓待の精神だ。COVID-19以降の大転換についての大げさな提言があふれているが、私はこの平等と共生の優しい視線から新しい共同体を夢見たい。
暗い路地を歩いていると、延南洞(ヨンナムドン)の京義線森の道公園に出た。ここもやはり飲食店の大半は閉店し、ベンチに座って夜の空気を楽しむ青春もなかった。雨粒が大きくなってきた。濡れたままきらめく街灯の下に立ち、フランシスコ教皇が2015年に発表した生態回勅『ラウダート・シ(あなたはたたえられますように)』の13項を、静かに祈る気持ちで唱えた。「人類は今も、ともに暮らす家の建設に協力する能力を持っています」。