「あっという間に焼夷弾が雨のように降ってきました」
1945年3月10日、当時30代だったファン・ヨンジョさん(1998年死去)は、あの日の東京の未明の空のことをそう記憶している。米軍の330機あまりの戦略爆撃機B-29が9日夜から10日未明にかけて、東京都心に「鋼鉄の雨」を降らせた。サイパン島とテニアン島から出撃したB-29は、上空から約2時間で約32万発の焼夷弾を東京に投下した。
米軍は太平洋戦争末期、日本の戦争の意志を完全にくじくために、民間人の密集地域まで焼き尽くす空襲をおこなった。家族を連れて逃げようとしたファンさんは、「火災で火の粉が飛び散り、煙が立ちのぼっていて前が見えず、息もまともにできなかった。落ち着いてから何日も妻を探しまわったが、遺体すら確認できなかった」と言って身を震わせた。ファンさんはこの時、妊娠3カ月の妻と義妹を失った。
在日朝鮮人たちは火の海の中で、その20年あまり前に経験した関東大震災時の朝鮮人大虐殺が再演されるのではないかという「二重の恐怖」に震えなければならなかった。当時10歳だったイ・ギソクさんは「あの時、父が母に『(朝鮮語で)一言も話すな』と言った」と証言する。東京大空襲での死者数は9万5千人あまりで、うち朝鮮人の死者は1万人あまりに達すると推定される。
今月5日に記者が訪ねた東京都江東区の「東京大空襲・戦災資料センター(東京大空襲センター)」には、この時犠牲になった朝鮮人のコーナーが設けられ、ファンさんのようなつらい体験談を記録している。東京大空襲センターは「空襲の被害を受けた朝鮮人たちは、植民地支配下で日本に渡ってきて生きていこうとしていた人々だけでなく、軍需工場などに強制動員された人々もいた」と説明している。
東京大空襲から今年で80年になるが、数多くの朝鮮人犠牲者がいるにもかかわらず、韓日政府レベルのきちんとした真相究明は行われていない。韓国政府では、2012年に「対日抗争期の強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会(強制動員支援委員会)」が強制動員被害を調査した際、東京大空襲における95人の朝鮮人の死亡を確認している。強制動員支援委員会は、東京都墨田区の東京都慰霊堂で開かれる東京大空襲の朝鮮人犠牲者追悼式に2015年まで追悼の辞を送っていたが、その後は組織が解体されたことで、それすら途絶えている。
そのような中でも、志を持つ韓日の市民が資料を少しずつ発掘している。総連系の「東京朝鮮人強制連行真相調査団」が李一満(リ・イルマン)事務局長(2019年死去)を中心として、創氏改名されたと推定される200人あまりの朝鮮人犠牲者を探し出したのが代表的な例だ。東京大空襲で被害を受けたナム・ハンギルさん(1911~1976)の「罹災証明書」が同氏の妻によって在日韓人歴史資料館に寄贈されているため、一部の資料が残ってもいる。在日同胞2世の金日宇(キム・イルウ)さんも、東京大空襲の朝鮮人犠牲者と被害者に関する証言集『東京大空襲・朝鮮人罹災の記録』を2005年から相次いで出版している。
民間レベルで東京大空襲の朝鮮人犠牲者を追悼する会も続けられている。今月1日、東京郊外にある在日朝鮮人のために建てられた寺の国平寺では、東京大空襲の朝鮮人犠牲者追悼会が開催された。追悼会は2007年にはじまり、今年で19回目を迎えた。米軍は当時、東京に続き、その他の主要都市にも空襲を拡大したことから、他の主要地域でも同様の活動が続いている。「大阪空襲75年朝鮮人犠牲者追悼集会実行委員会」は、今月13日の追悼会の開催を準備している。同実行委によると、米軍による大阪空襲での犠牲者総数は9千人あまりと推定されるが、朝鮮人の名前を持つ犠牲者はひとまず20人あまり確認されている。しかし、当時の大阪の人口の10%ほどが朝鮮人だったことを考えると、それよりはるかに多くの犠牲者が出たと推定される。実行委は「最近の調査では、創氏改名によって日本名で記録されている朝鮮人犠牲者が確認されている」とし、「大阪空襲で犠牲になった朝鮮人は、植民地支配と侵略戦争にまきこまれて被害にあっていることから、日本の加害の歴史の一部とみる必要がある」と説明した。
今からでも韓国政府は積極的に調査を行うべきだ、とも指摘されている。東京大空襲センターの千地健太学芸員は7日、ハンギョレに「朝鮮人の東京大空襲での被害の実態を確認するため、日本政府が韓国政府に渡した資料を詳しく研究するとともに、被害者が残した記録も調査する必要がある」として、「日本や韓国に東京大空襲の被害生存者や遺族がいれば、当時の話と遺品を公開してほしい」と訴えた。