イスラエルとイスラム武装組織ハマスの武力衝突による危機が、人質拘束問題によって増幅している。
ハマスの軍事組織「アルカッサム旅団」のアブー・ウバイダ報道担当は9日(現地時間)、 「今後、事前警告なしに民間人の家屋に対して攻撃した場合、我々が拘束している人質を1人ずつ処刑する」と述べた。
これに先立ちハマスは7日、イスラエルを奇襲攻撃した後、イスラエル人と外国人数名を人質として拘束した。イスラエル外務省は9日、ハマスに拘束された人質は130人にのぼると明らかにした。
ハマスがイスラエル人の人質を多数拘束し処刑もありうると脅すことは、今回の事態を悪化させる引き金になると予想される。1948年のイスラエル建国から75年間、パレスチナのイスラム武装勢力は人質拘束を闘争手段として用いてきた。武装勢力は、人質拘束を通じてイスラエルと国際社会に自分たちの主張を押し通そうとしたり、イスラエルに収監されているパレスチナ・ゲリラと交換したりした。
1968年7月23日、ローマを出発してテルアビブに向かったイスラエルのエルアル航空の旅客機がパレスチナ・ゲリラにハイジャックされた事件は、人質事件の本格的な幕開けだった。この事件後、パレスチナ・ゲリラだけでなく他国の過激派勢力が行ったハイジャック事件にも影響を与えた。
パレスチナ・ゲリラは旅客機をアルジェリアのアルジェに着陸させて他の乗客を開放し、イスラエル市民と乗務員22人を人質として拘束した。5週間も続いた人質釈放交渉の末、最終的にイスラエルは妥協した。イスラエルが収監していたパレスチナ・ゲリラ15人を釈放する条件で人質が解放され、人質犯も身の安全が保証された。当時は人質犯とイスラエル双方が人命が脅かされないよう最善を尽くした。しかし、人質事件が頻発するようになると、そうした度量の広さは失われていった。
1972年9月5日、ドイツのミュンヘン五輪の際に発生したイスラエル選手団の人質拘束および虐殺事件が転換点だった。パレスチナ内でも極左とされる組織「黒い九月」は、イスラエル選手団の宿舎に乱入し、選手やコーチングスタッフ9人を人質として拘束して2日間立てこもり、人質全員と犯人そして西ドイツ警察の1人を含む17人が死亡した。犯人はイスラエルに収監されたパレスチナ人234名の釈放を要求したが、西ドイツ当局が救出作戦を行い、惨事が起きた。
1974年5月、イスラエルのマーロット(Ma'alot)で起きた事件は、大規模な人質事件の幕開けだった。レバノンからイスラエルに浸透したパレスチナ・ゲリラは、5月15日に小学校で子ども105人を含む115人の人質を拘束し、仲間の釈放を要求した。
イスラエルが2日後に対テロ部隊を投入して鎮圧に乗りだすと、人質犯は機関銃を乱射して手榴弾を投げ、子ども22人を含む30人以上が死亡する悲劇となった。
その後、イスラエル当局は、人質事件は武力で鎮圧し、その後も報復を続ける対応に傾いた。イスラエル情報機関「モサド」は、ミュンヘンの悲劇に関係した人たちを追跡して暗殺し、その内容は映画『ミュンヘン』でも描写された。
1974年にイスラエルとアラブ諸国の間で起きた第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)後、中東和平交渉が始まった。パレスチナ抵抗運動の中心勢力だったパレスチナ解放機構(PLO)も、その後はイスラエルとの交渉の意向を示し、パレスチナ人組織が行う人質事件は徐々になくなっていった。
しかし、1987年12月にパレスチナで発生したインティファーダ(民衆蜂起)以降、勢力を急速に拡大したイスラム主義勢力「ハマス」が、人質事件を起こし始めた。イスラエルを認めない非妥協的な闘争を掲げたハマスは、1990年中盤以降、イスラエル人の人質拘束を主な闘争手段として利用した。
ハマスは1994年10月、イスラエル軍兵士1人を拉致した。イスラエルは交渉せずただちに救助作戦を行ったが、その兵士は死亡した。2006年、イスラエル軍兵士のギルアド・シャリート氏の拉致および人質事件は5年間続き、イスラエル国内で大問題となった。シャリート氏は2011年、パレスチナ人収監者1000名あまりと交換され釈放された。
2014年6月、イスラエル人青少年3名が拉致され死亡した事件は、2014年のガザ戦争を触発した。イスラエルは2014年7月初めから50日間、毎日ガザ地区を空爆して地上軍3旅団を投じ、ガザ地区は焦土化した。パレスチナ住民2300人あまりが死亡した。
ハマスが大規模に人質を拘束した事件は今回が初めて。100人前後の人質がイスラエル南部各地で拘束されガザ地区に連行された事態は、過去とは次元の違う危機だ。イスラエルは進退ともに困難な状況に陥り、ハマスもまた岐路に立たされた。