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ロシアのウクライナ民間人虐殺は断罪されるだろうか

登録:2022-07-18 08:09 修正:2022-07-18 09:09
[ハンギョレS] ク・ジョンウンの現実の地球 
国際政治とジェノサイド 
 
1995年のスレブレニツァの虐殺について 
セルビア、不誠実な謝罪と事件否定 
オランダも過去の歴史に似た態度 
「国際政治」を名分に普遍的人権を揺さぶる
11日(現地時間)、1995年のスレブレニツァ大虐殺の生存者のある女性が、事件当時亡くなった親戚の墓の近くで祈っている/AFP・聯合ニュース

 旧ユーゴスラビア連邦で民族対立が起き激烈な内戦が広がっていた1995年7月、ボスニアのスレブレニツァでセルビア軍が住民らを連行し、虐殺した後ひとまとめに穴に埋めた。犠牲者は8000人を超え、全員がムスリムのボスニア人男性だった。国連が派遣したオランダ平和維持軍が近くにいたが、彼らはセルビア軍を阻止しなかった。

 27年が経過した今月11日、ボスニアを訪問したオランダのカイサ・オロングレン国防相は、当時虐殺を放置した自国軍の行為について謝罪した。追悼式に参加した国防相は「おぞましい大量虐殺の責任はセルビア軍にあるが、国際社会が住民を適切に保護できなかったことも確かだ」と認めた。

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「虐殺の過去」の責任を転嫁する加害国

 バルカンの「ジェノサイド」(集団虐殺)で最も残虐な事件であるスレブレニツァの虐殺は、責任者を罰するための国際社会の努力が集中した事案だ。戦争犯罪者と名指しされたラドヴァン・カラジッチやラトコ・ムラディッチなどの当時のセルビア人指導者たちは、1995年にただちに国際ユーゴ戦犯裁判所(ICTY)で起訴された。1999年に国連事務総長名義の事件調査報告書が発表され、2002年にはオランダ政府の報告書が出された。2005年には米国議会が、2009年には欧州議会が虐殺を糾弾し、戦犯の責任を問う決議案を採択した。

 当時の状況を記録したビデオが公開され、集団埋葬地が追加で発掘され調査が行われる間、「ダッチバット(Dutchbat)」、すなわちオランダ軍の過去の行為は、再三にわたり非難を受けた。単に無力であっただけでなく、助けてくれと哀願するボスニアの住民数人を虐殺者に渡し、結局は殺害されることになった状況が明らかになった。2002年、当時のウィム・コック首相は「誤ちもあるが、非難される理由はない」と述べ、最終的には辞任に追い込まれた。

 困難な過程を経てオランダ国防相の謝罪にまでたどり着いたが、あまりすっきりしない印象を受けるのも事実だ。何より、オランダは虐殺の主犯ではない。虐殺を犯したセルビア側も、2010年に議会が謝罪したことはあった。しかし、議員の過半数をわずか2票超えただけだった。セルビアの中では、事件を否定する声が語られ続けた。2012年、当時のセルビアのトミスラヴ・ニコリッチ大統領は「虐殺はなく、あの戦争犯罪は一部のセルビア人が犯したものにすぎない」と述べた。「ボスニアの虐殺者」と呼ばれた戦犯のカラジッチが2008年にようやく拘束されたのも、セルビアの保護によるものだったという指摘が多かった。

 国際社会も、一貫して真相を明らかにしようと努力したとはいえない。端的な例として、虐殺20周年の2015年7月、この事件をジェノサイドと規定し、公式に糾弾しようとしていた国連安全保障理事会の決議案が、ロシアの拒否で失敗に終わった。しかし、ロシアがウクライナを侵攻し、虐殺と拷問などの反人道的犯罪を犯して非難を浴びると、オランダの「過去の歴史に対する謝罪」が出てきた。政治的な解釈がついてまわらざるを得ない。オランダが謝罪する前日の今月10日、欧州連合(EU)のジョセップ・ボレル外交安全保障政策上級代表は、当時の事件の意味を再確認する声明を出した。「ウクライナで起きている大量殺人と戦争犯罪は、1990年代のバルカン戦争に対する人々の記憶を鮮やかに蘇らせている。スレブレニツァの虐殺を欧州共通の歴史として記憶することが、いつにもましても我々の義務になっている」

 オランダの謝罪が釈然としない印象を与えるもう一つの理由は、オランダの過去そのものにある。インドネシアのスラウェシ南部で起きた虐殺も、彼らの歴史的な犯罪の一つだ。第2次世界大戦の終結直後、日本軍に一時占領されていたかつての植民地を再占領したオランダ軍は、南スラウェシの独立運動を鎮圧しようとして、大規模な軍事作戦を行った。ゲリラを捕らえ次第殺害する即決処刑で報復したり、村を包囲した後、成人男性を集め虐殺したりした。スレブレニツァの虐殺とまったく同じジェノサイドだった。インドネシア側は当時4万人が虐殺されたと主張し、オランダの学者の調査では3000~4000人が犠牲になったと推定された。ジャワ西部のラワグデでも、オランダ軍は約400人を集団虐殺した。

 正義を取り戻そうとする被害者の戦いは、長い時間を要した。ラワグデ事件について、オランダの裁判所が「戦争犯罪には時効がない」として政府の責任を認めたのは、2011年になってからのことだった。2年後の2013年、マルク・ルッテ首相は「1945~1949年にオランダ軍によってインドネシアで起きた処刑について、公式謝罪する」と述べた。しかし、過去の軍事作戦全体ではなく「処刑」に対してのみ謝罪するのだという注意書きをつけた。

 独立戦争で10万人のインドネシア人が亡くなったと推定されているが、オランダ政府が完全に責任を認めることはなかった。1969年にも「公式調査」を行ったが、「わが軍は全般的に正しく行動した」という結論を下した。2005年には「歴史の誤った側に立っていた」と認めたが、謝罪はしなかった。今年2月に謝罪しながらも、ルッテ首相は「この報告書は法的な観点ではなく、歴史的な観点で書かれたもの」だと述べ、戦争犯罪が賠償責任につながることを避けようと努めた。

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普遍的人権の立つ場所はどこか

 過去の残虐な行為を糾明し、加害者が被害者に謝罪することは、歴史を学び顕彰する重要な方法の一つだ。しかし、そのような謝罪が出てくるまでには、つねに厳しい戦いが必要になる。今日の強者が昨日の強者の側に立つことが多くあり、時には過去が現在に利用されたりもする。第1次世界大戦時代、オスマン・トルコ帝国がアルメニア人を虐殺すると、英国はその残酷性を広く知らしめ、当時帝国領に住んでいたアラブ民族の独立闘争を扇動する材料として活用した。今世紀になりトルコがEU加盟を強く求めていた時、ムスリムのトルコ人労働者が押し寄せるのではないかと心配した欧州各国は、100年ほど前のオスマン・トルコ帝国のアルメニア人虐殺を問題視した。

 「アルメニア人ジェノサイド」は、クルド人に対する迫害とともにトルコの人権問題を批判する主要な材料になっていた。しかし、ロシアのウクライナ侵攻後、スウェーデンとフィンランドのNATO(北大西洋条約機構)加盟をトルコが妨害すると、米国はクルド人への支援を中断し、トルコをなだめた。中国のウイグル人弾圧も、米国政府が中国に圧力をかける「人権の基準」として活用されているが、ロシアに対抗しなければならないという大義の前では、そのうちひっそりと消えるかもしれない。米国のアントニー・ブリンケン国務長官が中国の王毅外相に会い、ロシアに対する封鎖への協力を論議し、11月には両国の首脳会談を準備するという状況にある。

 普遍的人権は最も重要な価値だが、国際政治の前では容易に揺れ動く。歴史の真実は、書物ではなく現実政治の中で見出してこそ光輝くものであり、その断面は、つねに美しく広げられるものではない。

ク・ジョンウン|国際専門ジャーナリスト (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/international_general/1051177.html韓国語原文入力:2022-07-16 15:07
訳M.S

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