ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官が中国の北京を電撃訪問した。「熾烈な競争の中で熾烈な外交」を掲げ、対中国関係改善を試みるジョー・バイデン政権を後押しする行動とみられる。100歳の高齢者の訪問に、中国では習近平国家主席が直接迎え手厚く礼遇した。習主席は2023年7月20日、釣魚台国賓館5号室でキッシンジャー元長官に会い、このように述べた。
習近平国家主席が直接会って手厚く礼遇
「キッシンジャー博士はちょうど100歳の誕生日を迎えられ、中国への訪問回数もすでに100回を超えている。この二つの『100』を一つにまとめると、博士の今回の中国訪問がよりいっそう特別な意味を持つようになる。(中米関係正常化は)両国に利を与えただけでなく、世界を変化させた。(…)中米関係の発展を促進し、両国国民の友誼を増進するための(キッシンジャー博士の)歴史的貢献を忘れない」
2023年5月27日に100歳の誕生日を迎えたキッシンジャー元長官が、初めて中国の地を踏んだのは52年前のこと。1971年7月1日、当時ホワイトハウス国家安保補佐官だったキッシンジャー元長官は、予告したアジア歴訪に発った。米国領グアムを経て、戦争真っ最中だったベトナムのサイゴン(現ホーチミン)を回り、タイのバンコクとインドのニューデリーを訪問した彼は、7月8日にパキスタンの首都イスラマバードに到着した。ついて行った取材陣の中で最後まで残ったのは1人だけだったほど「過酷な」出張だった。
当時のパキスタンのヤヒア・カーン大統領は、キッシンジャー元長官一行のために盛大な晩餐を準備した。しかし、きつい歴訪スケジュールで疲労がたまったキッシンジャー元長官は突然腹痛を訴えた。カーン大統領はイスラマバード郊外の海抜2千メートル以上の高地にある自身の別荘を提供し、休息を取るようにした。作戦名「マルコ・ポーロ」、米国務省も中央情報局(CIA)も知らなかったキッシンジャー元長官の秘密の訪中はこうして始まった。これに先立ち、カーン大統領は1970年10月に中国を訪問し、ニクソン米大統領(当時)の特使としてキッシンジャー元長官が訪中する意向があることを中国側に伝えていた。
1971年7月9日午前4時頃、キッシンジャー元長官はイスラマバードのチャクララ空軍基地の滑走路で待機していたカーン大統領の専用機に乗った。外交部欧州北米局の章文晋局長ら中国の外交官4人が出迎えるために待機していた。専用機は約6時間の飛行の末、北京に到着した。中国革命元老で毛沢東主席に続き軍序列2位の葉剣英・中央軍事委員会副主席がキッシンジャー元長官一行を迎えた。
同日午後4時35分から午後11時20分まで、キッシンジャー元長官は釣魚台国賓館5号室で、中国外交を総括する周恩来国務院首相と晩餐を兼ねたマラソン協議に取り組んだ。1971年7月29日、米大統領府のウィンストン・ロード国家安保室先任行政官が作成した48ページの「1級機密」(2002年2月 機密解除)に分類された報告書には、当時2人が交わした対話の全文が書かれている。
「一つの中国」に合意し、米中国交正常化の道を開く
「今日の午後、特別なニュースがあった。あなたが失踪したそうだが…」 。周首相は冗談から話し始め、キッシンジャー元長官一行にタバコを勧めた。中国側からは葉剣英副主席と共に改革・開放初期に外交部長を務めることになる黄華・駐カナダ大使などが同席した。『中国の赤い星』を書いたエドガー・スノーが1970年12月に毛沢東主席にインタビューした内容を素材に対話を始めた2人は、キッシンジャー元長官の冒頭発言から本格的な協議に入った。
キッシンジャー元長官は冒頭発言で「平等と相互尊重に基づいた関係」という表現を3回繰り返して使用した。また、自分がニクソン大統領の特使として裁量権があり、ニクソン大統領の訪中を準備するのが交渉の目的だという点も明確にした。周首相は米中が公式の接触を始めた「1955年8月1日以後、計136回の交渉が進められたが、何の結果も出せなかった」という点を強調した。続いてこのように述べた。
「大使級の接触をするたびに米国側は『小さな問題を一つずつ解決していけば、次第に隔たりを埋めることができるだろう』と言った。我々は『まず根本的な問題を解決してこそ他の問題を解決できる』と強調した。双方の立場は常に食い違っていた」
周首相が述べた「根本的な問題」とは、台湾問題だ。この日の交渉でもインドシナ(ベトナム)やソ連、日本、南アジア各国などに対する議論がなかったわけではないが、台湾問題に交渉時間の半分ほどが費やされた。キッシンジャー元長官は「台湾の政治的未来に関して米国は『二つの中国』の解決策や『一つの中国、一つの台湾』の解決策いずれも賛成しない」と述べた。周首相が、いわゆる「台湾独立運動」について尋ねると、キッシンジャー元長官は「支持しない」と答えた。
両者がこの日交わした対話は、翌年の1972年2月、ニクソン大統領の歴史的な中国訪問が実現した時、「米国は台湾海峡の両側にあるすべての中国人が『中国は一つしかなく、台湾は中国の一部』と主張していると認識している。米国はこのような立場に異議を提起しない」という内容が盛り込まれた共同声明発表につながる。「一つの中国」はそのようにして作られた。
中国が「西欧的民主化」するという期待は崩れ
当時、米国はソ連との対決に集中するために、ベトナムから撤退を準備していた。中国はソ連との国境紛争の直後だった。両者の利害関係が合致していた。ニクソン政権は中国が改革・開放で経済発展を成し遂げれば西欧式民主主義を受け入れると楽観した。だが、歴史は米国が望む方向には流れなかった。「ニクソン・キッシンジャーモデル」は廃棄された。52年前に周首相と会ったまさにその部屋で、習主席と向き合ったキッシンジャー元長官は、どんな気持ちだったのだろうか。中国外交の司令塔格である王毅・中国共産党外交担当中央政治局委員は、7月19日にキッシンジャー元長官と会った時、「宣言」でもするかのようにこのように述べた。
「中国の発展には、強力な内生的動力と必然的な歴史的論理がある。中国を改造しようとする試みは不可能であり、中国を包囲して中国の発展を抑制しようとするのはさらに不可能だ。米国の対中国政策には、キッシンジャー式外交的知恵とニクソン式政治的勇気が必要だ」