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済州4・3の記録が運命…姉弟が虐殺現場のタランシ窟にささげた著書

登録:2026-04-04 09:11 修正:2026-04-04 15:17
米軍の介入を追跡し、生存者の口述を記録 
「ガザの悲劇は毎日…4・3は終わらない問い」
3月23日午後、詩人のホ・ヨンソンさんと記者のホ・ホジュンさんが、済州北東部の旧左邑細花里にあるタランシ窟の入口で、最近執筆した4・3に関する自著をささげ、犠牲者を追悼している=イ・ユジン記者//ハンギョレ新聞社

――あの事態、あの時代と呼ばれた4・3…。しかし、ここには人間がいて、暮らしがあったのです。――

 久しぶりに晴れわたった春の日だった。3月23日午後、済州島北東部の旧左邑細花里(クジャウプ・セファリ)にあるタランシ窟を訪ねた。「済州の山(オルム)の女王」という別名を持つほど美しい姿をしたタランシオルムが一望できる。記者のホ・ホジュンさんは整備された道路を運転しながら、「最初にここに来た時は、やぶをかき分けて歩くしかなかった」と語った。詩人のホ・ヨンソンさんは「洞窟の中にいた人たちはどれほど喉が渇いたことだろう」と言って、近くのコンビニエンスストアでミネラルウォーターを1本と子どもが喜びそうな菓子を1箱買った。

 タランシ窟の入口に着くと、2人は出版されたばかりの自著を地面に置いた。ホジュンさんは複雑な表情で「34年ぶりにささげる本」だと語り、ヨンソンさんは「(済州4・3事件で犠牲となった)女性と子どもたちのために書いた詩」だと言った。みかん、水、菓子。素朴な供え物の前に、造花のように咲いている真っ白な野の花が一輪見えた。「そちらで花は咲きましたか、ここはもうすぐ花が咲きそうです」。ヨンソンさんが4・3にささげた詩の一節のような、春の使者だった。

 1992年4月、タランシ窟に実際に入って取材したホジュンさんは、この場所で発見された11体の遺体の真実を記事で伝えた。討伐作戦の犠牲者だった。子どもや女性も含まれていた。討伐隊はタランシ窟に潜んでいた人々が手りゅう弾を投げ入れても出てこなかったため、わらに火をつけて窒息死させた。タランシ窟事件は4・3の惨状を全国に知らしめ、真相究明運動が開始されるきっかけとなった。遺族の反対にもかかわらず、遺体は慌ただしく火葬されて海に撒かれた。

 ヨンソンさんはタランシ窟の前の石碑に刻まれた文字を朗誦した。「ここに人間がいた。暮らしがあった。/私たちは死んだ者たち、死んだが死んでいない。/私たちは暗闇の洞窟の煙に閉じ込められ、煙でさまよう者たち/消え去らぬ者たちだ」。この文章を書いたのが、他ならぬヨンソンさんだ。

 ホ・ヨンソンさんとホ・ホジュンさんの姉弟は、4・3に際してそれぞれ2冊の本を出版した。2人は済州で生まれ育った「4・3の記録者」だ。1957年に済州で生まれたホ・ヨンソンさんは、1980年に『心象』新人賞でデビュー。1981年から22年間記者として働き、済民日報の編集部局長、済州4・3研究所の所長を歴任。ヨンソンさんは「男性たちの戦争の隙間で最も弱い存在だった女性と子どもの犠牲に心を寄せ」、連帯者かつ詩人として4・3を文学的に昇華させてきた。研究者としては、2024年まで5年にわたり『4・3と女性生活史叢書』全5巻の出版を主導した。

4・3、記憶の嵐の中へ|ホ・ホジュン著、ヘファ1117、2万3000ウォン//ハンギョレ新聞社

 弟のホ・ホジュンさんは1963年生まれ。1989年にハンギョレ新聞社に入社し、36年間にわたり4・3事件の真実を追求してきた。ジャーナリストであり政治学博士でもあるホジュンさんは、定年退職後の現在は日本の立命館大学コリア研究センターの客員研究員。今回出版された『4・3、記憶の嵐の中へ』は、昨年の第13回済州4・3平和文学賞ノンフィクション部門の受賞作を手直ししたものだ。同書では、タランシ窟事件を中心に、南労党武装隊に拉致されて山へ連れ去られたチェ・ジンギュ(仮名)と、自ら山に入ったイ・ミョンボク(仮名)という2人の人物を主人公に据え、知られざる武装隊の生活と国家暴力、そして人間の本性の問題を扱った。

4・3、アーカイブで見る歴史|ホ・ホジュン著、ヘファ1117、3万2000ウォン//ハンギョレ新聞社

 「済州で記者をしていて、4・3と向き合わざるを得ない運命でした。タランシ窟の取材をきっかけに、4・3を生涯の課題に据えました。30年以上の作業になるとは思っていませんでしたが」

 同時に出版した『4・3、アーカイブで見る歴史』は、1945年9月23日から1957年8月9日までの1日単位の歴史を100のシーンで再構成したもの。37年間にわたり韓国、日本、米国で徹底的に調査・発掘した資料を広範に集め、執ように掘り下げた。ノーベル文学賞受賞者のハン・ガンの『別れを告げない』が世界的に知られるようになり、今や英国や台湾などの外国メディアもホジュンさんを取材に訪れる。

 「4・3は少なくとも2万5千人から3万人が犠牲になった事件でした。当時の済州は毎日、毎瞬間が『シーン』であり、一日一日が『歴史』でした。まだ明らかにすべきあの日々の真実が残っています。軍や警察による討伐隊や西北青年団の暴力は知られていますが、いまだに集団虐殺の加害者と指揮系統は知られていません」

4・3平和公園に設置された行方不明者の碑。4138基ある=イ・ユジン記者//ハンギョレ新聞社

 ホジュンさんは今回の著書で、焦土化の中心人物の1人だった第2連隊長ハム・ビョンソンが済州島民から「漢拏山(ハルラサン)の虎」というあだ名で呼ばれていたこと、そして朝鮮戦争期に最後の武装隊に対する討伐作戦が米軍の企画のもとで行われていたことも明らかにした。生き残った済州の人々は、終わりなき飢餓の中でも税金以上の寄付金を強要され、労働力を搾取されていたことも明らかにした。緊迫した東北アジア情勢の中で、済州は地政学的にも危険な状況にあった。

 「1949年、中国の蒋介石政権が済州島を爆撃基地として提供してほしいと要請してきました。済州は冷戦初期の東アジアにおける新たな国際秩序の再編の過程で、外部勢力による戦略的関心の対象となっていました」

 ホジュンさんが済州を国際史に位置付けている間、ヨンソンさんは生存者に話を聞き、法廷で証言を聞いた。2021年3月16日、済州地方裁判所第201号法廷では、4・3の時期に違法な軍事裁判で行方不明となった333人と、2人の生存受刑者の再審請求訴訟が丸一日かけて行われた。内乱や国家転覆陰謀という罪名の下、70年あまりを息を殺して生きてきた人たちだった。ヨンソンさんは「被告人各無罪!」という6文字を聞くために70年待ち続けた人々の物語を、2冊の詩集にまとめた。『法ならざる法の下に』が犠牲者の名誉と回復をつづった法廷日記だとしたら、『私たちは雷の夜をくぐり抜けてきた者たちだから』は彼らを弔う鎮魂歌だ。

法ならざる法の下に|ホ・ヨンソン著、マウメスプ、1万3000ウォン//ハンギョレ新聞社
私たちは雷の夜をくぐり抜けてきた者たちだから|ホ・ヨンソン著、マウメスプ、1万3000ウォン//ハンギョレ新聞社

 「何も知らないおばあさんたちが裁判長の前で陳述する場面そのものがひとつの現場であり、文学でありドラマでもありました。連座制に引っかかるからと『息を殺していろ』と言っていたおばあさん、おじいさん、お母さんの下で育った70~80代の子どもたちが、もどかしがって顔を覆い、しばらく座ったままだったのです。『今日は父の誕生日だ』、『父の法事の祭壇に無罪を報告する』とも言っていました」

 ヨンソンさんは1978年に発表されたヒョン・ギヨンの小説『順伊おばさん』で4・3を本格的に知り、日記に「変な予感がする」と書いた。「一生4・3に縛られて生きるような既視感を抱いたんだと思います」。ホジュンさんは釜山(プサン)で兵役を終え、1987年に復学して以降、少しずつ4・3にのめり込んでいった。1989年に記者となってから本格的に取材と研究を重ね、4・3を「公式の歴史」に掲載しはじめた。2001年には有給休暇を取得し、自費で米国へ渡って機密文書をあさった。米軍政下で起きた4・3の鎮圧過程で、済州道警備隊の配属となった米軍の顧問官たちの足取りを追跡し、最終的に直に彼らに会い、執ように追及して証言を聞いた。2024年にはついに米国務省に『4・3に対する米国の立場』を問い、76年を経て公式回答を引き出した。米国務省は「悲劇的な事件」であり、「忘れてはならない」との立場を表明した。

 「4・3にはきちんとした名称がありませんでした。誰もが『あの事態、あの事件、あの時代』と言っていました。イデオロギーの問題だと思います。軍事独裁時代を経る中で『4・3は共産暴動』だとの認識が深く根を張っていたからです。当時は記者たちも歴史意識がありませんでした。雰囲気が変わったきっかけは、1987年の民主化運動と5・18聴聞会でした。」(ホ・ホジュン)

ホ・ホジュンさんが4・3平和公園に設置された刻名碑(犠牲者の氏名、当時の年齢、死亡日時などを簡潔に記した石碑)を指さしている=イ・ユジン記者//ハンギョレ新聞社

 姉弟の家族も4・3にかかわっていた。父親の兄弟が亡くなっており、父親も1年ほど済州の収容所と本土の刑務所で服役した。母方の祖父は懲役1年、母方の叔父は懲役7年6カ月。両家とも4・3の被害を受けているが、家族内ではそのことについてほとんど語られなかった。「息を殺していろ」は、問答無用で守るべき軍事独裁時代の至上命令だった。

 「共同体そのものが破壊された事件であり、済州島全体に4・3の血が染み付いていました。いちばんつらかったのは沈黙でした。家でもみんな口をつぐんで『息を殺していろ』と言っていました。4・3の家族史を持たない家はありませんでした」(ホ・ヨンソン)

 ヨンソンさんは「たったひとつの欠片」で真実を掘り下げた。畑仕事をしていたら刑務所に収監されたおじいさんの孫、子どもたちを脅かす警察に抗議したら行方不明となった若者の弟、民間人虐殺の現場となったジョントゥル飛行場で遺体が発見された男性の配偶者などの話を聞き、詩を書いた。とりわけ「泣くべき季節に泣けなかった子どもたち」の話は耳にこびりついた。

ホ・ホジュンさん(左)とホ・ヨンソンさんが、4・3の犠牲者を追悼する像を見つめている=イ・ユジン記者//ハンギョレ新聞社

 「90歳のおばあさんに4・3の時の話をしてくれと言うと、『ある星がとてもキラキラしてるんだ』と言うんです。幼い頃、避難先で見ただろう、無邪気に美しく見えた星。その経験は、ほぼ80年がたった今でも脳裏に焼き付いているんです。4・3で亡くなった人の10人に1人は子どもでした。このような統計は無差別虐殺、特に児童虐殺の規模を示しています」(ホ・ヨンソン)

 ヨンソンさんは2004年の2つ目の詩集『根の歌』から、本格的に女性と子どもの犠牲と苦しみを表現しはじめた。最も広く知られる代表作「木綿布おばあさん―月令里(ウォルリョンニ)のチン・アヨン」は、35歳だった1949年1月に警察に銃撃されてあごを失い、木綿の布であごを隠して過ごし、90歳で苦痛の生涯を終えた女性のことを語ったものだ。

 「私は『木綿布おばあさん』の『くくっと詰まった喉の音韻』、その苦しみ、その体の声を聞きました。今回も法廷で70年を経て国の答えを聞いたおばあさんの最後の一言、『ハッ、まったく』、その声をはっきりと自分の耳で聞いたんです。そんな声が波のように私に迫ってきました。」

 2人と話をしながら、夕暮れ時に済州4・3平和公園を訪ねた。2008年3月28日に開設されたこの公園の行方不明者の碑には、遺体が見つかっていない犠牲者の碑が4138基設置され、黙って虐殺の規模を証言していた。「4・3になると、各村の人々がここを訪れ、供え物をして祭祀を行い、名前を磨いたりしている」とヨンソンさんは語った。

3月23日午後、ホ・ヨンソンさん(左)とホ・ホジュンさんが、済州4・3平和公園内にあるシンボル彫刻「飛雪」(犠牲者のピョン・ビョンセンさん母子の記念像)の前で空を見上げている=イ・ユジン記者//ハンギョレ新聞社

 この場所を象徴する代表的な彫刻「飛雪(ピソル)」に足を向けると、像を囲む玄武岩の壁から、済州に伝わる子守唄「ウォンイジャラン」の切ないメロディーが流れてきた。この等身大の像の主人公、ピョン・ビョンセン(ピョン・ビョンオク)さんは、1949年1月6日、雪の降る中、奉蓋里(ポンゲリ)の漢拏山の中山間地帯で、乳飲み子の娘を抱いたまま銃弾に倒れた。討伐隊は前述の「漢拏山の虎」ハム・ビョンソンの部隊だった。ホジュンさんが見つけたその日の新聞は「ハム・ビョンソンの英雄的戦闘」という記事で埋め尽くされていた。わずか4時間で実に153人が虐殺されたという記録があるため、そのうち2人はピョン・ビョンセン母子だったはずだ。

 「今、ガザ地区ではこの『飛雪』のようなことが毎日起きていますよね。4・3は過去の事件ではなく、今も私たちの中で続いている問いなのです」(ホ・ホジュン)

 「消えていく、そして生き続ける声を消えないようにつかまえて記録すること自体が、私たちの仕事ではないかと思います」(ホ・ヨンソン)

ホ・ホジュンさん(左)とホ・ヨンソンさんが4・3公園のオブジェの壁にもたれかかっている=イ・ユジン記者//ハンギョレ新聞社
済州/イ・ユジン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/1252466.html韓国語原文入力:2026-04-03 05:02
訳D.K

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