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「あなたが大阪にいると知ってうれしい」…4・3済州から消えた家族

登録:2024-04-03 00:37 修正:2024-04-03 18:08
米国立公文書記録管理局に保管のGHQ文書 
済州と日本との間でやりとりされた 
相手への思いのこもった手紙の数々
東京のGHQ傘下の民間検閲支隊が、済州と日本との間でやりとりされた郵便を検閲し、手紙の内容について記した報告書=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

済州(チェジュ)4・3抗争は済州の人々の人生を根本から覆した。生と死の境に立たされた済州の人々は死を逃れて島を脱出した。親や兄弟を失い、頼れるところもなく、失意と絶望の日々を送っていた人々も島を離れた。命がけで密航船に身を預けた人たちが行き着いたのは、日本の大阪だった。日本国内の4・3遺族は確認されているだけで850人あまり。およそ1千人を超えるものと推定される。慣れない土地で自らを鍛えながら根を下ろした人々は、今も4・3の記憶を胸に抱いて故郷に想いを馳せながら、「在日」として生きている。

 「1948年8月に兄さんが済州を去って以来、兄さんの行方は分かりませんでした。今回無事に大阪に着いたと聞いてほっとしています」

 済州道表善面表善里(ピョソンミョン・ピョソンリ)のコ・トマン(Ko To Man)は1949年6月30日、大阪市生野区にいる兄のカン・デソン(Ko Tai Sei)にこのような手紙を送った。手紙の内容から考えると、カン・デソンは4・3抗争の真っただなかの1948年8月に済州を去った。当時は韓国国内の新聞で「済州は涙の海」、「各地で済州道人決起、平和的解決を当局に陳情」、「戦慄する血の島」などと報じられた暗い時期だった。彼の行方が分からず、10カ月近く気をもんでいた家族たちは、日本から来た手紙で彼が生きていることを知った。表善里の弟は兄に、家族は安心しているとの返事を送った。

 済州4・3抗争期に日本と済州との間で手紙がやりとりされていたことを示す文書が発掘された。米国立公文書記録管理局(NARA)に保管されていた当時の日本駐留連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の文書には、このような内容が含まれている。解放後、韓国駐留の米第24軍団が民間人の郵便を検閲していたのと同様、日本のGHQ傘下の民間検閲支隊(CCD)も通信と郵便を検閲していた。彼らは韓国と日本を行き来する郵便を検閲し、このような内容を収集して報告していた。

 報告書には、手紙・はがきなどの郵便の形態、言語形態、差出人と受取人との関係、消印の日付、郵便が許可されたのか不許可処分とされたのかなどと共に、郵便の内容の中から一つか二つの文章を抜粋して英語に翻訳したものが記されている。報告書には、手紙の差出人と受取人の住所と、日本式の発音のみで表記された、または漢字と日本式発音の両方で表記された名前が記されている。

 記者が読んだ内容は1949年4月から8月にかけての5カ月の間に送られたもので、済州道と日本との間を往来した同期間の手紙の検閲件数は、確認したものだけで40件あまりに達した。手紙の内容には、4・3抗争以降に虐殺と弾圧を避けて日本に渡ったと推定される人々のものもある。

 「同じ船に乗って日本にやって来た仲間の学生は、今はみな元気でやっています」。1949年7月22日に大阪府八尾市からカン・ヒャンウォンが西帰面下孝里(ソグィミョン・ハヒョリ)のカン・チャンブンに送った手紙は、同じ船に乗って日本に渡ってきた学生たちの安否を伝えている。この時期に日本に渡る方法は密航だけだった。複数の学生が集団で密航船に乗り、虐殺と検挙を逃れて日本に渡ったものとみられる。日本に着いたカン・ヒャンウォンは、下孝里の知人に日本到着を伝えたのだ。

 韓国の別の地域にいると思っていた息子が日本に渡っていたことを知らされた家族もいた。7月2日に大静面武陵里(テジョンミョン・ムルンリ)の父親が、大阪府泉北郡に居住する息子のイ・ドゥピョンに送った手紙には、父親は息子が釜山(プサン)にいるとばかり思っていて、日本に密航していたことは知らなかったとある。父親は息子に「お前は釜山にいると思っていたが、日本から送られて来たお前の手紙を受け取ってとてもうれしい」と述べ、安堵(あんど)のため息をついている。

 日本に密航した夫からの連絡がなく、もどかしい胸の内を訴える手紙もある。「あなたが家を出てから瞬く間に2年がたちましたが、1通の手紙も受け取っていません。私は苦しい生活を送っています」。安徳面上川里(アンドンミョン・サンチョンリ)のコ・ショウキ(Go Sho Ki)は6月20日に、東京都葛飾区の夫ヤン・スンピルに、長いあいだ連絡のないもどかしさと夫のいない生活の苦労を訴える手紙を送っている。手紙の内容を見ると、夫のヤンは1947年の3・1事件後に済州道を脱出したと推定される。

在日済州人たちが集住する大阪市生野区鶴橋の市場=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 日本に密航した母親が済州の娘に送った手紙もある。大阪市北区に住むソン・ウルセンの母親は7月16日に、済州邑道頭里沙水洞(チェジュウプ・トドゥリ・サスドン)のイム・マングクの母親を通じて、娘に近況を書いて送っている。

 「愛する娘へ。私は先日、秘密裏に済州をたって日本にやって来た。大阪に着いたが、また秘密裏に済州に帰るのは難しいということを知った。とにかく私のことは心配しないで、故郷の親戚に私の安否を伝えておくれ」

 1948年に夫婦が連れ立って密航船に乗ったとする手紙もある。1949年7月22日、済州邑龍潭2里修近洞(ヨンダムイリ・スグンドン)のユン・ビョンニョルは、大阪市生野区にいる息子の嫁のチャン・ヘンオクへの手紙に「お前とお前の夫が故郷を去ってからもう1年がたったんだね。それでも二人とも元気に過ごしていると聞いてとてもうれしい」と記している。夫婦は4・3抗争の真っただなかに済州を去ったと推定される。

 在日済州人たちは、済州から誰が日本にやって来た、あるいはやって来るはずだという知らせをやりとりしていた。生野区のアライマサコは7月25日に、北海道北見市に住む父親のタカダサタロウに手紙を送り、「チュンヒの母親が23日に済州から来た」と伝えている。

 同じ生野区のパク・ハンソンは7月27日に、東京都足立区のマツムラヤスノに「済州島にいる義父からの数日前の知らせによると、私の妻が近いうちに釜山を経て日本にやって来る」という内容のはがきを送っている。当時は親戚を頼って密航することが多かった。密航に成功して京都に定着したプ・ウルセンは、建入里(コニムリ)のユン・ウヒョンに「日本に着いてから親戚たちに会った」と述べている。

 日本に渡った人々は、何とか金を工面して困窮する済州島に少しでも送ろうとしていた。手紙のかなりの部分は、日本から親戚を通じて金が送られ、それを受け取って使ったという内容が占める。済州邑のキム・ショウレン(Kin Sho Ren)は生野区にいる父親のキム・ソンシンに「昨年末、韓国に帰ってきた叔母から、お父さんが送ってくれた1万円を受け取った」と伝えている。

 安徳面上川里のセイ・シュンカ(Sei Shun Ka)は7月6日に、東京都台東区にいる夫のイ・ビョンヒョンに「あなたが送ってくれた1万ウォンを受け取って借金を返した」という手紙を送っている。4月1日には南元面為美里(ナムォンミョン・ウィミリ)にいる息子が、高知県高知市にいる父親のパク・チャンベクに「某を通じてお父さんが送ってくれたお金は、お母さんの法事にかかる費用に充てるにも足りなかった」と愚痴る手紙を送っている。このような中でも、大阪にいた済州人の中には、故郷に帰る方法を探る人もいた。大阪府布施市のイ・オクソンは、南元面為美里に住む母親のアン・チョンスに宛てた8月4日付の手紙で、「故郷に帰ろうと思ってあらゆる努力を傾けていますが、いつ実現するかはまだ不透明です。でも、今年の年末までにはあらゆる手段を尽くして帰ろうと思っています」と述べている。

 4・3の研究者たちは「当時の4・3抗争の混乱のさなかで済州人たちの日本密航は続いていたが、日本に居住する人々と済州の家族、親戚、知人たちとの間で郵便がやりとりされていたのは見たことがなかった」、「手紙の原文が発掘されれば、4・3抗争期になぜ日本に渡らねばならなかったのか、彼らがどのように生きたのかなど、4・3抗争と在日済州人との関係の研究にとって良い資料になるだろう」と話した。

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/jeju/1134860.html韓国語原文入力:2024-04-02 14:00
訳D.K

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