この本を読んでいる間、羨ましさと切なさ、驚きと怒りの感情がせわしく交差した。歴史の過ちを真正面から見つめ、それから現在と未来の教訓を引き出すドイツ人の責任感と自信に自ずと頭が下がった。同じ戦犯国であるにもかかわらず、ドイツとは全く違う行動を取ってきた日本の無責任と卑怯さが改めて嘆かわしかった。100年前の関東大震災における朝鮮人虐殺や南京虐殺、非人道的な戦争犯罪を否定し、無視してきた行動が、放射能汚染水の無断放出につながったのではなかろうか。
ドイツに居住するフリーランス作家、チャン・ナムジュ氏の『ベルリンが歴史を記憶に留める方法』は、ベルリンに関する本だが、その含意はベルリンとドイツにとどまらず、私たちの歴史と現実にも及ぶ。第1巻『ナチスの過去事』と第2巻『冷戦の半世紀』からなる同書で、著者はベルリン市内のいたるところで見られる歴史記念物を媒介に、ドイツ社会が歴史を記録し教育する姿勢を浮き彫りにする。ドイツ統一過程を取り上げた第2巻も興味深いが、ドイツの恥部ともいえるホロコーストに光を当てたた第1巻で、その姿勢は特に際立つ。その中心内容をあえて先にいうなら、「(過去事の)整理は終わっていない」という連邦文化相の発言で要約できるだろう。
著者によると、ベルリンだけで1万2千個余りの記念物が登録されているという。その中で著者がまず注目するのは、グルーネバルト駅の17番線だ。1941年10月18日、ベルリンでは初めて1千人を超えるユダヤ人を乗せた列車がこの線路を出発し、強制収容所に向かい、戦争が終わるまでこの駅だけで1万7千人がアウシュビッツやビルケナウ強制収容所に移送された。今、この駅前には「1941.10.18」と刻まれた標識が置かれているが、1987年にある女性団体がこの標識を設置する前にも何度も似たような記念標識が設置されては除去されたりしたという。ドイツでも負の歴史を記憶に留めるのは決して容易ではなかったことが分かる。
1985年5月8日、ワイツゼッカー大統領がナチス降伏40年を迎え行った議会演説で、この日を降伏や敗戦ではなく解放の日であり記憶の日だと宣言したことが決定的な転換の契機となった。1998年1月27日、アウシュビッツ解放日を迎え、ドイツ鉄道はナチスの移送を手助けしたことについて謝罪し、グルーネバルト駅を記念館に指定した。2007年には、ヨーロッパ全域から100万人以上の子どもと青少年が収容所に移送された記憶を込めた「記憶の列車」がフランクフルトを出発し、アウシュビッツまで1万キロの旅路に出た。翌年にはドイツ鉄道本社のすぐ前にあるベルリンのポツダム広場駅で、「死に向かう特別列車」という名前の展示が開かれ、この展示は7年間ドイツ全域の44駅を巡回した。
国立オペラ劇場とフンボルト大学などが取り囲んでいるベーベル広場では、1933年5月10日、ナチスを追従する大学生たちの主導でいわゆる「非ドイツ精神」の烙印を押された数万冊の本が焼き払われた。今、この広場の地面には「書物が焼かれるところでは、いずれ人間も焼かれるようになる」というハイネの文言が銅板に刻まれており、毎年5月10日には「忘却に立ち向かう読書」という名前で当時燃やされた本を読むイベントが開かれる。ベルリンだけでなくミュンヘンやハンブルク、ボン、ドレスデンなどドイツ各地で同じイベントが開かれている。
5万人以上が犠牲になったブーヘンバルト強制収容所広場にある、常に人の体温と同じ温度が維持されるように設置された「36.5度追悼造形物」、重症患者や身体・精神障害者を殺害場所に運んだバスを模した「灰色のバス記念碑」、ジプシーと通称されたシンティとロマなどの犠牲者を悼む「涙の泉」、同性愛犠牲者の追悼碑と映像窓、ヒトラー暗殺を企てて逮捕されたゲオルク・エルザーを偲ぶ鋼鉄棒とLEDランプ、ベルリン市内バス停留所に建てられた主なナチス監部の顔写真と説明などの記念物は、多様かつ執拗だ。あえてここまでする必要があるのかという反応を予想したかのように、フランク=ワルター・シュタインマイヤー連邦大統領は2020年のアウシュビッツ解放日75年追悼式典における演説で、このように強調した。「私たちは起きたことを忘れません。私たちは起こり得ることを忘れません」。シュタインマイヤー大統領彼の誓いと約束は、植民地支配の歴史に関する記憶にもつながる。 「植民地時代の犯罪と抑圧、搾取、収奪、数万人の殺害は私たちの記憶の中に適切に根付かなければなりません」。このような言葉を日本の指導者から聞くことはできないだろうか。
ケーテ・コルビッツとローザ・ルクセンブルクは、ベルリンとドイツが特に多くの記念物で称える2人の女性だ。コルビッツは息子と孫がそれぞれ第1次世界大戦と第2次世界大戦に出て戦死した苦しみを経験し、戦争に反対し平和を訴える芸術家として生まれ変わった。彼女が第1次世界大戦勃発10周年記念集会用に描いたポスター「二度と戦争はごめんだ(Nie wie der Krieg)」は今も反戦イベントで使われている。
革命家のローザ・ルクセンブルクは、ドイツ社民党とソ連共産主義を同時に批判し、独自かつ根本的な評議会体制を主張し、1919年1月、右翼民兵隊員に残酷に殺害された。彼女の名前にちなんだベルリン中心街の広場には、彼女の語録60個余りを刻んだ「思惟の標示」が設置されているが、その中で最も有名な言葉を結びに代えて紹介したい。「政府支持者や党員だけのための自由は、彼らの数がいくら多くても決して自由とはいえない。自由とは常に、思想を異にする者のための自由である」。意味もまともに知らずに口を開くたびに「自由」を叫ぶある人に贈ってあげたい言葉だ。2017年ベルリン市は「自由の首都ベルリン」をモットーに寛容と開放の「自由ベルリン」キャンペーンを行ったが、その一環としてローザのこの言葉を盛り込んだポスターがベルリン市内各地に貼られ、市内の建物にもローザの肖像画と共にこの引用文プラカードが掲げられた。市民の反対はなかった。