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独裁に対抗した韓国の「闘士詩人」金芝河氏死去

登録:2022-05-09 12:51 修正:2022-05-09 17:28
1年余りにわたる闘病の末、原州の自宅で死去…享年81 
反独裁闘争で投獄…後年には「思想転向」論議も
8日に死去した詩人の金芝河氏=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 「灼けつく渇きで」「五賊」で知られる詩人の金芝河(キム・ジハ)氏が8日死去した。享年81。金芝河氏はこの1年余りの闘病生活の末、同日午後、江原道原州(ウォンジュ)の自宅で息を引き取ったと、土地文化財団の関係者が伝えた。

 金芝河氏は韓国現代史のくびきと暴力に全身でぶつかった闘士であり、伝統思想の現代的再解釈を通じて先駆的な生命思想を説いた思想家でもあった。しかし、反独裁闘争によって7年間を獄中で過ごした彼は、1991年の民主化闘争の過程で続いた学生・青年たちの焼身自殺を叱責するコラムを「朝鮮日報」に寄稿し、2012年の大統領選挙では自身を弾圧した独裁者朴正煕(パク・チョンヒ)の娘である朴槿恵(パク・クネ)当時セヌリ党候補の支持を宣言したことで、「思想転向」論議が起きた。

 本名・金英一(キム・ヨンイル)。1941年に全羅南道木浦(モクポ)で生まれ、1954年に江原道原州(ウォンジュ)に移住して原州中学校を卒業、ソウルの中東高校を経て1959年にソウル大学美学科に入学。1964年に対日屈辱外交反対闘争の一環としてソウル大文理科大学で開かれた「民族的民主主義葬儀」の弔辞を書くなどの活動で逮捕され、4カ月間投獄される。1966年に大学を卒業した彼は、1969年、チョ・テイルが主宰した詩の専門誌「詩人」に金芝河のペンネームで「ソウル道」他4編の詩を発表し、正式に登壇した。

 登壇翌年の1970年、「思想界」5月号に権力型不正と腐敗像をパンソリの節に合わせ痛烈に批判した詩「五賊」を発表。その後、野党の新民党の機関紙「民主戦線」がこの作品を転載すると、朴正煕政権はこの詩が「北傀(北朝鮮)の宣伝活動に同調」したものだとし、反共法違反で金芝河を拘束。「思想界」の発行人と編集人、「民主戦線」編集人なども拘束した。この事件が国会で問題になると、彼は収監から1カ月で保釈されたが、これをきっかけに金芝河の名前は一躍世界に知られるようになる。

8日に死去した詩人の金芝河氏=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 高校時代から詩を書き始め、正式に登壇する前の1963年、「木浦文学」に初めて詩を発表した金芝河は、登壇翌年の1970年末に鮮明な血の色の叙情で叫ぶ最初の詩集『黄土』を出版。1974年に起きた民青学連事件と関連して指名手配された彼は、同年4月に逮捕され、非常普通軍法会議で内乱扇動罪などにより死刑を宣告され、無期懲役に減刑された。死刑求刑当時から日本を中心に金芝河を救うための活動が繰り広げられ、サルトルやボーヴォワール 、ノーム・チョムスキーなどの知識人たちが金芝河の釈放を要求する訴えに署名するなど、国際的な動きが活発になり、1975年2月15日、刑執行停止処分で約10カ月で出獄する。「終身刑を受けたのにもう出るとは、歳月が狂ったのか、私が狂ったのか、それとも両方とも狂ったのか。何かおかしい」というのが金芝河の出獄の感想だった。

 出獄してわずか10日後の2月25~27日、3回にわたって金芝河が「東亜日報」に寄稿した手記「苦行ー1974」で人民革命党事件が捏造されたことを暴露すると、当局は再び彼を逮捕し、元の無期懲役に加え懲役7年に資格停止7年を宣告する。その後、全斗煥政権発足後の1980年12月に刑執行停止で釈放されるまで、彼は70年代の残りの時間を刑務所で過ごす。この時、生命思想に目覚めるようになる。彼が獄中にいる間、アジア・アフリカ作家協会は第3世界のノーベル賞と呼ばれるロータス賞特別賞を金芝河に与えることを決めた。

 1982年、『黄土』に続く二つ目の詩集『灼けつく渇きで』と『大説 南』第1巻が出版されたが、まもなく販売禁止となった。「大説 南」で示されはじめた生命思想は、その後の物語集『飯』と散文集『南の土地の舟歌』などにも続いた。1986年には生命思想と民族叙情が結合した詩集『愛隣』1巻と2巻を続けて刊行し、1988年には水雲 崔済愚(スウン チェ・ジェウ)の人生と死を扱った長詩「日照りの日に雨雲」を発表した。1990年代以降も詩集と散文集を出しつづけ、詩集『中心の苦しみ』(1994)、『花開』(2002)、文学的回顧録『白い影の道』(全3巻、2003)などが代表的だ。

8日に死去した詩人の金芝河氏/聯合ニュース

 1991年、明知大学生のカン・ギョンデが戦闘警察の殴打で死亡したことに抗議する学生や青年たちの焼身自殺が続くと、金芝河は「朝鮮日報」に「死の儀式をやめよ」と題する長文のコラムを載せ、闘争の熱気に冷水を浴びせた。このことで彼は民主化運動陣営と反目することになり、彼の救命運動がきっかけで結成された民族文学作家会議(現韓国作家会議=作家会議)からも除名されるという曲折を経ることになる。その後、律呂や後天開闢といった民族思想を説く散文集を地道に出し続けた彼は、2001年に朴正煕記念館反対一人デモを行い、作家会議の後輩文人らと和解の場を設けるなど関係回復の努力も見せたが、2012年の大統領選を控え朴槿恵支持を宣言したことにより、決定的に袂を分かつことになった。彼は選挙結果が出た後も、民主化運動圏をひとまとめにして罵倒し、文学や民主化闘争の仲間の実名を挙げて暴言に近い非難を浴びせることで、自身の「思想転向」を完成させるかのごとく態度を固めた。

 独裁者朴正煕の鉄拳統治に丸腰で対抗し、1960~70年代を朴正煕と金芝河の二人対決時代にした闘士詩人、金芝河。しかし、独裁者の無能で腐敗した娘に対する擁護と支持で損なった晩年の過ちを正す機会もなく、彼は帰らぬ人となった。

 遺族は長男のキム・ウォンボさん(作家)と次男のセヒさん(土地文化財団理事長兼土地文化館館長)。葬儀場は原州セブランスキリスト病院に設けられる。

チェ・ジェボン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/1042000.html韓国語原文入力:2022-05-0902:40
訳C.M

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