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[インタビュー]「日本軍国主義の洗礼を受けた『日本人・朴正煕』を明らかに」

登録:2020-10-26 05:27 修正:2020-10-31 14:13
現代史記録研究院 ソン・チョルウォン院長
ソン・チョルウォン院長に学生運動の同志である詩人の金芝河氏の近況を尋ねるとすぐに「考えが変わった後は連絡していない」と語った。彼は金芝河氏と共に1970年に居酒屋「レジスタンス」を開きもした=カン・ソンマン先任記者//ハンギョレ新聞社

 社団法人現代史記録研究院のソン・チョルウォン院長(78)は9日、法人設立12周年を迎え、町内の住民たちに餅を配った。研究院は設立以来、朴正煕(パク・チョンヒ)・全斗煥(チョン・ドゥファン)軍事政権で民主化運動を行った約300人の口述を収録し、映像も撮った。今年は全斗煥政権が宥和政策を展開した1983~1984年頃に活動した民主化関係者の証言を集めている。民主化運動記念事業会の支援事業で、朴槿恵(パク・クネ)政権後半の2年は支援が途切れ、中断しなければならなかったという。

『朴正煕クーデター概論』表紙//ハンギョレ新聞社

 ソン院長は、1964年6月に朴正煕政権の韓日交渉に反対して起きた6・3デモの起爆剤になった人物だ。ソウル大学政治学科4年生だった同年4月、朴正煕の大学査察文書を入手して暴露し、1カ月後には朴正煕政権に正面から立ち向かう最初の大規模学生デモである「民族的民主主義の葬儀」集会で、友人であり詩人の金芝河(キム・ジハ)氏が書いた「弔辞」を朗読した。集会後、情報機関に連行された彼は、釈放後に拷問を受けた事実をマスコミに暴露し、朴正煕政権を窮地に追いつめた。この事件の余波で中央情報部の職員3人が実刑を受けた。6・3デモが行われた日には、セブランス病院の患者の服を着て4人の学友が担いだ担架に載せられ、東崇洞(トンスンドン)から光化門(クァンファムン)までデモ行進に参加した。

 建国大学の専任教員だった1976年には、野党機関紙に載せた朴正煕政権を批判する文章が口実となり大学を追い出され、全斗煥政権末期の1987年には、野党政治家の支持集会に参加したという理由で、学習塾の講師の職まで奪われた。

 ソン院長は今回発刊した本(『朴正煕クーデター概論』)で、朴正煕が示したクーデターの気質の根源と、朴正煕が李承晩(イ・スンマン)政権の時から試みたクーデターの陰謀の顛末を取りあげた。人民革命党司法殺人や光州(クァンジュ)抗争など、朴正煕・全斗煥クーデター政権が犯した暴圧的な蛮行も扱った。

 彼は朴正煕クーデターの気質の根源を、朴正煕の意識形成に影響を及ぼした日帝植民史観から探った。「私は朴正煕は日本人だと思います。個人的な不幸ですよ。朴正煕は、日本で民主主義がしばし輝いた大正時代の終わった年の1926年に学校(亀尾(クミ)公立普通学校)に入り、1931年の満州事変、1937年の日中戦争、1941年の太平洋戦争など、日本が軍国主義に突き進んだ時期に教育を受け、人生観が確定しました。5・16クーデターの直後に日本に行き、流暢な日本語で『私はあなた方が尊敬する吉田松陰を尊敬する』と言いました。朝鮮征伐を叫んだ征韓論者の吉田松陰を尊敬するなど、今なら弾劾の対象でしょう」

 朴正煕は大統領選挙を控えた1963年に出した本『国家と革命と私』で、「朝鮮の歴史を党争と士禍の歴史」と規定し、「このすべての悪の倉庫のような私たちの歴史は、いっそ燃やしてしまえばいい」と書いた。「朴正煕は、春園・李光洙(イ・グァンス)が東亜日報(1931~1932)に連載した小説『李舜臣』を読み、軍人になることを決心します。日本が軍国主義の道を歩んだ時期に、李光洙が李舜臣をまともに描いたでしょうか。李光洙が書いた伝記を読むと、李舜臣だけを除き、朝鮮の人はすべて党派闘争に陥っており、無能です。戦っている途中に逃げ出したり。明の軍隊が朝鮮で犯した強姦と略奪は多く出てきますが、日本軍の悪行は出てきません」

 「私が持った朴正煕に対する考えが間違っていないということを、文章に書くことで確認できた」。彼が本に書いた内容だ。「朴正煕の時に投獄と拷問を受け、朴正煕に対する私の感情は良くはなりえません。その後、これが私的感情のためなのかといつも悩みました。ほとんどの人は、朴正煕のおかげで良い暮らしができるようになったといって良く思うでしょう」

 「私は、共産分子に対する憎悪と共に、官製アカ(共産主義者)を作り勲章を得た昔の習慣をひどく嫌っています。どれほど多くの善良な民が、そのような縁故で苦労と迫害を受けてきたでしょうか」。 解放空間で南朝鮮労働党(南労党)の秘密党員活動を行ったことが明らかになり、無期懲役宣告まで受けた朴正煕が、大統領選挙の勝利直後の1963年12月、女性月刊誌「女苑」に載せた文章だ。ソン院長は、自身が京郷新聞に掲載された雑誌広告を見て、国立中央図書館から探し出したこの文章も、朴正煕に対する当初の考えが間違っていなかったことを示していると語った。「朴正煕は、軍内部の派閥争いのために自分が『官製アカ』にされたと嘘をついています。彼はこの寄稿の1年前に、民族日報のチョ・ヨンス社長を官製アカとして追い込み殺しました。その後も多くの人を共産主義者に追い込んで殺したんです」

「10・26」に合わせ「朴正煕クーデター概論」を発刊
「クーデターの気質の根源は日帝植民史観」
朴正煕と朴槿恵・全斗煥などをシリーズで

ソウル大学政治学科の時に「6・3事態」の導火線に
初の反政府デモ…偽装活動家・拷問も「暴露」
「朴正煕礼賛論者のほとんどが『確証偏向』に陥る」

 「朴正煕のおかげで良い暮らしができるようになった」という人たちには、このような話を返したいという。「韓国人の勤勉さと創意性のおかげで経済が発展したのに、どうして一人の個人の力のおかげなんですか。馬鹿げた話ですよ。私たちは、奴隷や他人に縛られた存在なのですか。地域感情や富の偏りがひどくなったのも、朴正煕政権の時からです。朴正煕政権が工業化のために低農産物価格政策を展開し、全羅道の農民は大きな犠牲を払いました。農地から押し出され都市に来た労働者たちは、低賃金でどれほど多くの犠牲を払いましたか。京釜高速道路が作られ、大きな工場はすべて慶尚道側にでき、現在の江南(カンナム)の開発もあの時代に行われたものです」

 彼が見るところ、朴正煕礼賛論者のほとんどは「信じたいことだけを信じる確証偏見に陥った人たち」だ。「朴正煕を客観的に理解できないのではなく、しようとしない人たちです。太極旗部隊を見れば、右派や保守ではなく憎悪に満ちた極端主義者たちです。年を取れば大抵、確証偏見に陥ります。読書能力や意欲も落ち、見たいことだけを見て、それと一体になるためでしょう。この前、ソウル大学の同期に会ったところ、10年前に持っていた本をすべて捨てたと言いました。私は今も中古書店を回り、本を集めているというのに。5~6年前から朴正煕シリーズの執筆を念頭に置き、朴正煕を扱った単行本だけで1000冊ほどを集めました」

ソン・チョルウォン院長=カン・ソンマン先任記者//ハンギョレ新聞社

 京畿高校を出たソン院長は、高校や大学の同期のなかに言葉が通じる友達がほとんどいないとしながら、このように語った。「私が大学に通った時だけでも、学生の70~80%は左派でした。あの頃は北朝鮮が私たちより良い暮らしをしていて、学生がそうした点について悩みが多かったのです。新入生オリエンテーションの時に私に説教をした左派のリーダーはみな、今はおかしな方向に変わりました。人の思考というものは、同じものを堅持し発展もすることもあるし、変わることもあります。しかし、昔は左派思考をしていて右派に変わった人たちは、左派的思考だったことを隠そうとするんです。そんな人が多いです。朴正煕も権力を握った後、南労党関連の記録をすべて消しました。現政権に参加した民主化運動の要人のなかにも、研究院の口述要請に応じない人たちがたまにいます」

 彼は学習塾の講師時代にソン・ムニョンという仮名を使った。「出版社の法文社と博英社の中から1字ずつ取りました。1974年には後輩のチョ・ヨンネ(『チョン・テイル評伝』著者)がお金が必要だということで、『客観式英語演習』という英文法参考書を一緒に出したりしました」

 慶北女子高校出身の彼の妻のイ・ジョンニョルさんは、昨年から研究院で撮影を担当している。ソン院長の本を出すために先月登録した出版社(図書出版現記院)の代表もイさんが引き受けた。ソン院長は「妻と考えが通じ、とても助かっている」と語った。

 社団法人5・18民主化運動ソウル記念事業会の顧問も引き受けているソン院長は、インタビューを終え、このような話をした。「朴正煕時代のスパイ捏造事件である東ベルリン事件だけについても、実体的な真実がまだ十分に解き明かされていません。すでに高齢になった関係者たちが亡くなる前に、真実を明らかにするための口述収録などを急がなければなりません」

カン・ソンマン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/967156.html韓国語原文入力:2020-10-25 19:56
訳M.S

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