高さ12㎝、優雅な円模様を本体にちりばめたコバルト色に輝く1300余年前の硝子杯の故郷はどこであろうか。 日本の古代の都、奈良にある日本王家の宝物倉庫、正倉院に所蔵された一級宝物 硝子杯の製作地と由来した経路を巡って韓国・日本の文化財学界の関心が集中している。 ひと目見ただけでも西域の風合いが感じられるこの遺物が百済で作られ日本に伝来したという日本現地専門家の研究結果が発表されたためだ。
このような見解を発表した専門家は、去る27日からこの硝子杯を含む正倉院所蔵品特別展(11月12日まで)を開いている日本国立奈良博物館の学芸官である内藤栄だ。 彼は今回の展示図録に硝子杯を分析した論文を載せ、脚支えなどの模様と製作技法から見て百済で匠たちが加工して伝来した可能性が高いという見解を出した。 このコバルト色の杯はこれまで韓国・日本の学界で西域ペルシャ系統の様式を持った遺物として、シルクロード交流の産物として手に入ったという見解が有力だったが、百済加工説が提起されたことにより両国学界に少なからぬ波紋を起こすものと見られる。
内藤が硝子杯の百済加工説を裏付ける根拠に挙げたのは独特の紋技法だ。 杯の下の金属支え部分の躍動的なうず巻き形の唐草紋(ツル紋)が2009年に全北(チョンブク)益山(イクサン)の弥勒寺(ミルクサ)跡の塔基壇部から発見されて世間の注目を浴びた7世紀百済末期の金銅製舎利壷の魚子紋(小さい魚卵形を満たして刻んだ紋)と瓜二つだったという点に注目している。 魚子紋は6~8世紀に唐と百済・統一新羅・日本などの地で共通的に現れる技法だが、小さな卵模様の魚子をぎっしりと満たさずに、まばらに満たすことで、あたかも怪獣の形のような唐草紋と似合うように構成した事例は百済の弥勒寺跡舎利壷の紋だけに見られるということだ。 また、硝子表面に丸い紋を付け加え装飾美を誇った技法は1958年に慶北(キョンブク)、漆谷(チルゴク)、松林(ソンニム)寺前塔内で華麗な舎利装飾具の中に納められているのが発見された円紋のついた舎利器とほとんどそっくりだ。 内藤は「百済と日本王室の密接な親交関係で匠たちが細工した多数の工芸品を日本に贈り物として送ったという点、百済滅亡後に多数の王族の匠たちが日本に渡って行ったという点等から類推して、この硝子杯は百済で加工されて伝来した可能性が高い」と主張した。
これに対して韓国内学界の一部研究者たちも説得力があるという意見を示している。 仏教美術史学者ハン・ジョンホ東国(トングク)大教授は「当時、百済の匠たちは金属細工技術の側面で東アジア最高の技術力を保有していた」として「弥勒寺跡舎利壷の紋技法が韓半島だけの独創性を帯びているという点で非常に意味深い研究結果」と評価した。
しかし大きな争点が解決したわけではない。硝子杯自体を百済で作ったか否かは、すっきりと解明されていない。内藤の論文も硝子杯の硝子は、硝子を発明した西域ペルシャ系統であり、百済は硝子杯を輸入して脚支えを加工した後に再び日本に渡したという推定で結んでいる。 しかし韓国国内の学者たちは松林寺舎利器や扶余出土の硝子玉などに見られる高度な金属・ガラス工芸接合技法などから見て硝子を自ら製作した可能性も少なくないと見ている。
756年聖武日王の愛蔵品を本山の東大寺に捧げたことにより始まった正倉院の歴史で硝子杯はいつ誰がどんな経緯で持ってきたかの記録はない。 展示の主管社である<読売新聞>は硝子杯が義慈王が日本王室に送った木製碁盤のように百済王室の朝貢品だという推測記事を書きもした。
ノ・ヒョンソク記者 nuge@hani.co.kr