「遅くなりすぎたことをお詫びします」
昨年9月、真実和解のための過去事整理委員会(真実和解委)の調査官が、実兄を60年あまりものあいだ探し回っていたイ・チョリョンさんに面会し、涙ぐみながら語りかけた。10代で家を出た兄のイ・ジョビョンさんが75歳で亡くなってから、2カ月が過ぎていた。チョリョンさんは「大丈夫だ。このようなかたちであっても会えたからありがたい」と調査官を慰めた。真実和解委が兄弟福祉院の被害者を調査する過程でようやく確認されたジョビョンさんの納骨堂を訪問したチョリョンさんは、10日後に世を去った。遺族は兄弟の生と死を記憶する。
8日の真実和解委と遺族らの説明を総合すると、先天性小児麻痺で足が不自由だった兄のイ・ジョビョンさんは、1950年代後半、10代で家を出て孤児院に入所し、その後生涯の大半を収容施設で過ごした。1969年に21歳で孤児院を退所し、34歳だった1982年に兄弟福祉院に入所した。1987年に同院が閉鎖されるまで、5年間にわたり閉じ込められていた。閉鎖後は、慶尚南道晋州市(チンジュシ)のある福祉院に移された。そこで33年を過ごした。70歳を超えて2020年に移った慶尚南道昌原(チャンウォン)のある療養院が、ジョビョンさんの終の住み家となった。昨年7月にその療養院で生涯を終えたジョビョンさんの遺骨は、昌原にある無縁仏の納骨堂に安置された。
家族はジョビョンさんが家を出た直後に失踪届を出しており、2016年に失踪が宣告された。家族は、ジョビョンさんが生きていたことを知らずに法事を行っていた。先月24日に釜山市沙下区(プサンシ・サハグ)でハンギョレの取材に応じた弟のチョリョンさんの妻チョ・ギョンオクさん(73)は、「失った長男を生涯探していた義母は2006年に亡くなった。その後は義兄の法事も行ってきた。お酒を飲む度に『ジョビョンの顔を見なくちゃならないのに』と嘆いていた義母のことが今も思い出される」と語った。
チョさんも1976年にチョリョンさんと結婚後、30年以上にわたり顔も知らない義兄を探していた。釜山にある孤児院をしらみつぶしに当たり、兄弟福祉院や晋州の福祉院も訪ねたが、連絡はつかなかった。チョさんはその後、兄弟福祉院被害者の会に入り、そこで起きていた出来事を聞いた。障害のあったジョビョンさんが耐えるには過酷な環境だった。義兄は生きているという希望を持ち続けるのは徐々に難しくなっていった。
希望が消えそうだった頃、真実和解委の調査官から連絡を受けた。調査官は身元記録カードの中に兄弟福祉院の被害者と認められたジョビョンさんと似た「イ・ジョミョン」という名を見つけ、彼の施設転院過程を調べた。生年月日も誤っている新たな戸籍が作られていた。転院の過程を調べると、家族が把握していた情報とも合致した。
遅まきながら兄の死を知ったチョリョンさんは、1月に無縁仏の納骨堂で兄と再会した。口数が少なく物静かな性格のチョリョンさんは初めて「兄さん、私が来ましたよ」と言って声をあげて泣いたという。療養院の職員は「イさんは、家族は全くいないとおっしゃっていたが、無縁仏として葬儀を行った後に弟さんから連絡を受けた」とし「胃の切除手術をして片麻痺になり、体調が悪かった。病院から療養院に戻った後のある朝、静かに亡くなった」と語った。
チョリョンさんは納骨堂で兄に会ってから10日後の1月29日に亡くなった。持病はなかった。死因は心停止。突然葬儀を行うことになったチョさんは、今も夫の死の意味を問うている。遺族は釜山の永楽公園に眠るイさんの母親の位牌の隣にチョリョンさんの空間を設けた。娘のヨンジョンさん(42)は、息子のジョビョンさんにずっと会いたがっていたであろう祖母のために、ジョビョンさんの写真を位牌の下に置いた。「祖母が伯父(ジョビョンさん)を探し回っていたのを知っているから、父は祖母と伯父を会わせてあげようとして10日後に旅立ったんじゃないかな…。私たちはそう思っています」。一家はこうして、死を経てようやく一堂に会した。