「全斗煥(チョン・ドゥファン)が死去し、イ・スンジャ(全元大統領の妻)が過去について謝罪したじゃないですか。だけど、第三者の謝罪に何の意味があるでしょうか。私たちに付けられた『兄弟福祉院』というレッテルが消えるわけでもないのに」
1981年、まだ幼い11歳の歳で「兄弟福祉院」に連れて行かれ、6年間閉じ込められたイム・ミョンスクさん(52)は、痛ましい記憶を心の片隅に押しやって生きてきた。「余計に被害を受けるのではと思い、真実究明を申請するのをためらっていました。しかし、これからはそういうことは思わないようにしました。家族にも昨年初めてこのことを打ち明けました」。イムさんには自身を閉じ込めた兄弟福祉院と傍観した国家に対する不信感が色濃く残っていた。
兄弟福祉院の被害生存者は10年以上にわたり人権侵害の実状を知らせ、真実究明を求めてきたが、イムさんのように女性被害者はあまり姿を現さなかった。兄弟福祉院被害者協議会のパク・ギョンボ諮問委員長は「女性被害者の場合、家族に兄弟福祉院に収容されたことを打ち明けられず、真実究明の申請をためらう場合もある。当時、内部で起きた性暴力事件などで証言するのが苦痛のようだった。長い説得の末、今回真実和解委に被害事実を申告した被害者もいる」と伝えた。
24日、「真実・和解のための過去事整理委員会」(真実和解委)の兄弟福祉院人権侵害真実究明を控え、本紙は22~23日、忠清南道と慶尚南道で女性被害者2人に会った。彼女らは兄弟福祉院での悲惨な生活と、その後順調ではなかった人生について、やっとの思いで打ち明けた。
今や2人の娘の母親になったイムさんは「精神病棟(兄弟福祉院内の精神療養院)に行ったことと団体体罰、この2つはまだ記憶から消えていない」と切り出した。兄弟福祉院に入所した後、一日も休まず早朝6時から夜11時まで工場で働いた。「小隊」と呼ばれる生活館には女性小隊長がいたが、団体体罰を受ける時は男性中隊長にも殴られた。イムさんは「ある日は鼻をひどく殴られて血が流れたが、薬もまともに塗ってもらえず我慢しなければならなかった」と語った。13歳になったイムさんは少しでも休みたくて「お腹が痛い」と訴えたが、医務室ではなく精神病棟に連れて行かれた。「仮病を使ったら、先生が私たちを殴った後、精神病棟に連れて行きました。そこで栄養剤だと言って、薬を渡されましたが、それを飲むと、眠くてたまりませんでした。4日間ずっと薬を飲み続けましたが、到底耐えられませんでした。その後はまた連れて行かれるのが怖くて、痛くても我慢して働きました」。1987年イムさんは退所したが、長い労働と団体体罰により、指は関節がねじれたままだ。
真実和解委の調査の結果、収容者のうち不適応者や反抗者に任意で精神科の薬物を投与し、精神療養院をいわゆる「謹慎小隊」として活用した情況もこの日明らかになった。真実和解委は、兄弟福祉院が1年間に342人が毎日2回服用できる精神科薬物のクロルプロマジン(統合失調症患者の症状緩和剤)25万錠を購入した内訳を確認した。真実和解委は「女性の場合、男性より4倍以上高い割合で精神療養院に収容され、統合失調症の死亡率も男性に比べて高かった」と発表した。
1980年に11歳で兄弟福祉院に入所したAさんは、14歳になった年、パク・イングン兄弟福祉院長の社宅でパク氏の親戚の子どもの世話を任された。彼女は同い年のパク氏の娘が制服を着て学校に行く姿をはっきりと覚えていた。Aさんは「私はなぜ学校に行かせてもらえないのだろうと思った」と話した。Aさんは1987年、10代で兄弟福祉院を退所したが、彼女を受け入れてくれるところはなかった。
「そこから出てきて、何をすればいいのか分かりませんでした。歳が若くても飲み屋では無条件で使ってくれるじゃないですか。手に職もないし。 飲み屋にいると結局借金をすることになり、そうすると逃げることもできず(いわれた通り)他の居酒屋に行って…。映画が何なのか、おいしいものが何なのかも知らず、借金を返すため、30代までそこで暮らしました。私に少しでも学があったら、そんな所に行かなかったのに…。行き場がなかったんです」。それから数分間、Aさんの嗚咽が続いた。彼女は釜山市満月洞(プサンシ・マンウォルドン)の飲み屋街で、兄弟福祉院で見たことのある年上の入所者にばったり会ったが、互いに知らないふりをした記憶もあると語った。
兄弟福祉院に閉じ込められていた時間はなかなか癒えない傷跡となり、2人の女性の心の中に残っている。イムさんは今でも睡眠障害で熟睡できない。「福祉院にいる時、寝ずの番に立たされました。そうすると、仮眠しか取れず、ぐっすり寝たことがありません。今でも眠りに落ちてしまったら、起きられないのではないかという恐怖があまりにも大きくて、なかなか眠れません」
Aさんは居酒屋を転々としながら酒とタバコに依存し、時には自傷行為もした。「腹が立つと、なかなかそれをコントロールできないんです。幼いころ、(兄弟福祉院で)軍隊のように、言われた通りきちんとできなければ、怒られて体罰を受ける生活をしていたからなのか…」