昨年春、米カリフォルニア州の刑務所で新型コロナウイルスが拡散した時、監獄の囚人たちを社会に送り出した。彼らを社会に送り出す危険性よりも、伝染病の危険性を大きくみたのだ。刑務所で「ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離措置)」はそもそも不可能なため、むしろこの措置を取ったという。伝染病の第1原則が「ソーシャル・ディスタンシング」と「感染者の隔離」だが、囚人たちが密集隔離された刑務所はその措置が全く不可能な代表的な場所だからだ。
韓国はどうか。ソウル東部拘置所のコロナ感染者が1000人を超えた。拘置所内の感染者が200人になっても300人になっても、矯正当局は感染した患者を早く把握して別途隔離せず、当然彼らを暫しの間だけでも社会に送り出すという考えは最初からできなかったはずだ。そうしている間に感染者は1100人を超えた。伝染病発生後、法務部は収監者にマスクも配分せず、自費購入も許可しなかった。参考までに、2020年の矯正統計年報によると、韓国の矯正施設は収容定員4万7990人に対し収容人員5万4624人で定員超過の過密状態だ。
新型コロナの最善の防疫方法はソーシャル・ディスタンシングだ。それなら、すでに隔離施設に密集収容されている人々のソーシャル・ディスタンシングはどうすれば可能だろうか。韓国は現在、隔離施設にコホートを一緒に隔離し、感染者を増やしている。それを「コホート隔離」と呼ぶ。コホート(cohort)、翻訳すれば同類集団。結局、刑務所の監房の囚人が同時に感染する可能性もその分“同伴”する。「コホート隔離」という言葉が初めて登場したのは、最初の新型コロナによる死亡者が昨年1月に清道デナム病院で発生した時だ。結局、隔離施設にあるコホート、すなわち同一集団すべてを感染者と一緒に隔離すること、それがコホート隔離だった。そのような隔離施設としては刑務所、障害者施設、精神病院、療養病院(高齢者療養院)などがある。
正直、韓国のK-防疫がいぶかしい。この社会がどのように構成され毎日動いているのかについて、私たちは大体知っているからだ。世界のどの国であれ、新型コロナはその社会の属性と素顔を一つ一つあらわす機会になっている。それならば韓国社会のように収容施設、隔離施設、監禁施設など「施設(institution)」があふれる社会、すなわち排除と非可視化された少数者が多い社会で、防疫とソーシャル・ディスタンシングは果たしてどのように執行されるのか。疑問だった。周知のとおり韓国社会はすでに不可視化された人々に対して常に無関心だった。それが刑務所、「ハンセン病患者村」、「浮浪児」収容施設、そして数十年間の「兄弟福祉院」の強制拘禁、数多くの精神病院の人権じゅうりん、孤児院、障害者収容施設などで「施設の悲劇」につながった。韓国は隔離と監禁施設を「福祉施設」として許容する。
そして今や高齢化社会になり、隔離と監禁は療養病院、療養院まで続く。これは不都合な現実だ。認めたくないだろうが、認めなければならない現実だ。子どもたちは両親を死ぬまで過ごす隔離施設に送る。合法的な「棄老」だ。ところが、新型コロナの致死率は60代以上の高齢者の場合20%を超え、50代以下、特に30代以下の致死率は極めて低い。1月初旬現在、新型コロナの死亡者計1000人余りのうち、25%以上が70代以上の高齢者だ。結局、現代版「棄老」が新型コロナで完成するということだ。
隔離と監禁の「施設社会」 をどこまで許容するのか。いわゆる「コホート隔離」という名で数多くの人が自己防衛機制もなく新型コロナに感染し、放置され、死んでいる。伝染病の前で少数者と弱者は自分を守る権利も剥奪されなければならないのか。国家は伝染病を通じて優生学的な人口管理を図ってはならない。伝染病に最も脆弱な人たちを「コホート隔離」という名前で隔離してはならない。隔離と監禁はソーシャル・ディスタンシングではない。それこそ、新自由主義の最後の姿である。各自生存と適者生存、自然淘汰の3つの性格を持つ「社会的ダーウィン主義」、それがまさに新自由主義が選んだ資本主義社会の野蛮の状態だからだ。
クォン・ヨンスク | 社会学者・社会的ストライキ連帯基金代表