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[ハンギョレ21] 国家が産んだ‘生き地獄’の真実

登録:2013-10-29 20:18 修正:2023-03-10 08:39
独裁政権が”浮浪者”を取り締まるとしてやみくもに監禁
人権蹂躙・疑問死などが横行した釜山「兄弟福祉院」事件
26年ぶりに真実糾明へ
10代で '兄弟福祉院' に2年ほど監禁され悪夢のような時間を過ごしたキム・スチョル(44・仮名)氏は家族にもこのような事実を言うことはできなかった。チョン・ヨンイル記者

 1987年はソウル大生パク・ジョンチョルの死で始まった。 1月14日未明、治安本部(現 警察庁)南営洞(ナミョンドン)対共分室509号に連行されたパク・ジョンチョルは数回の水拷問の末に亡くなる。 大統領府・国家安全企画部(現 国家情報院)・検察・警察などの国家機関は彼の死を組織的に‘縮小・隠蔽’した。 22年が過ぎた後に‘真実・和解のための過去事整理委員会’が明らかにした真実だ。 その年の3月22日にはもう一つの死があった。 名前三文字だけがかろうじて残っているキム・ゲウォン。彼は全国最大の浮浪者収容施設‘釜山兄弟福祉院’の収容者であった。 蔚山(ウルサン)蔚州郡(ウルチュグン)の山を開墾するために畜舎に監禁され、一日10時間以上働かされた。警備員に‘袋叩き’にされ亡くなった。 他殺は‘腎不全症による死亡’に化けた。 そして26年の歳月が流れた。 釈然としない死を巡る真実は、まだただの一度も糾明されなかった。

1975~87年に亡くなった人だけで何と513人

 朴正熙・全斗煥へ受け継がれた軍部独裁政権は、産業化過程で都市貧民となり路頭に追い出された人々を‘片づけられて当然な潜在的犯罪者’と見た。 本人の意志とは無関係に、人目につかない施設に監禁した。 キム・ゲウォンもその内の一人だっただろう。 死んでいった人も一人や二人ではなかった。 釜山市と委託契約を結び‘浮浪者’を収容し始めた1975年から1987年までに兄弟福祉院で亡くなった人は何と513人だった。 施設が自主的に集計した数がこの程度だ。 福祉院から生きて出て来た人々は、兄弟福祉院に対して、人権蹂躪・性暴行・強制労働などが横行した‘生き地獄’だったと証言した。 飢えや殴られて死んだ多くの死は‘病死’にねつ造された可能性もある。 一部の遺体は医科大学の解剖学実習用に売られたという暴露もあった。 国家政策の野蛮性は、社会福祉法人の貪欲すら黙認した。 パク・ジョンチョルの死により危機に陥った権力は、兄弟福祉院事件を‘縮小・隠蔽’した。 パク・イングン一家は26年間、頑強に社会福祉法人を運営中だ。

 清楚なスーツ姿に金縁眼鏡をかけた男。 去る10月23日ソウル江北(カンブク)区庁近隣で会ったキム・スチョル(44・仮名)氏は同じ年頃の普通の会社員と変わりなかった。 そなんな彼には実兄にさえ打ち明けられなかった秘密がある。 2年余り、兄弟福祉院に収容されていたという事実だ。 どうにかして忘れたくて口にしなかった。 一方では、恥ずかしいという気持ちもあった。 国家が収容者に覆いかぶせた‘社会悪’という烙印は、普通の人々の間でも通用したためだ。

 両親と早く死別した少年は済州道(チェジュド)で育った。 14才の頃、長兄が暮らしている釜山に渡った。 兄の家に留まっていたある日、釜山駅に遊びに行ったことが禍根になった。 制服を着た中年の男が少年を呼んだ。 平凡に見える人から身なりがみすぼらしいホームレスまで10人余りの大人と一緒にバスに乗せられた。 兄弟福祉院へ向かうバスだった。 釜山市北区(プック)周礼洞(チュレドン)の山の中腹に建つ要塞のようなところだった。 少年は長兄の家の住所と電話番号を覚えていなかった。 済州道の自宅の住所を誰かに話したが、家族には会えなかった。 福祉院での生活は獣のような暮らしだった。 収容者たちは、組長-庶務-小隊長-中隊長の序列体系が組まれていた。 序列の頂点にはパク・イングン院長がいた。 こうして暴力を行使する権限を持った人々もまた収容者であった。 腕章をはめた収容者は残酷だった。 いつでも腕章を剥奪されるためだ。 国家から自由を強奪された人々は、このようにして人間性まで失わなければならなかった。 毎日のように何の理由もなしに殴られた。 長時間、逆立ちで気合いを入れられて、瞳孔の膜がむけたが何の治療も受けられなかった。 殴打されバタバタと倒れた子供たちがどうなったかは今も分からない。 頭を上げられなかったためだ。 同性間の性暴行も多かった。 彼もやはり被害者だった。 福祉院の中には、3千人余りの収容者が全員入れる規模の‘セマウム(新しい心)教会’があった。 絶えず殴られながら、神様のお言葉を丹念に覚えなければならなかった。

 14才の少年をどん底に追い詰めたのはいったい何だったのだろうか? 維新の恐怖政治が絶頂だった1975年12月、内務部訓令第410号(浮浪者の申告、取り締まり、収容、保護と帰郷および事後管理に関する事務処理指針)が制定された。 業務指針のみでいわゆる‘浮浪者’たちに対する強制拘禁が始まった。 国家が定義した‘浮浪者’とは 「一定の住居がなく観光業所・駅・バス停留所など多くの人が集まったり通行する所と住宅街を俳諧したり地面に座ってもの乞いまたは物品を売り付けることによって通行人を困らせる乞食・ガム売り・物乞い商売など健全な社会および都市秩序を阻害する人々」だった。 1987年2月に作成された新民党の兄弟福祉院真相調査1次報告書を見れば、警察は浮浪者取り締まり件数に応じて勤務評点を受けていた。 拘留させれば2~3点だったが、浮浪者を福祉院に入所させれば5点が与えられた。 1986年、兄弟福祉院に収容された3975人の内、警察が依頼した収容者は3117人、区庁が依頼した収容者は253人だった。 このようにして満たされた頭数に応じて福祉院は‘国庫補助金’を受け取った。 状況がこうであるからこそ滅茶苦茶な拘禁が成り立った。

浮浪者取り締まり件数に応じて評点を受けた警察

 1987年2月3日付<東亜日報>には兄弟福祉院での生活を経験した人々の暴露記事が報道された。 ヤン・某(当時26才)氏は、警察官として仕事をしている釜山の長兄宅に向かう時、突然降ってきた雨を避けるために釜山駅前の地下道に行き福祉院に連行された。 ソウルに暮すソ・某(当時32才)氏は高校卒業後、無銭旅行中に釜山駅前で背を丸くして寝ていたのが拘禁の理由になった。 福祉院へ入った当時、成人だったこれらの人々は強制労働に苦しんだと打ち明けた。

 1986年のある日、キム・スチョル氏は15人の集団に混ざって高さ5mを越える福祉院の垣根を越えた。 誰かがあらかじめ梯子を置いておいたようだった。 福祉院のマークが鮮かな服を着たまま逃げた。 警備員が追いかけてくる姿を見て怯え、薮の中で5~6時間を静かにしていなければならなかった。 偶然に見つけた鉄道に沿って暗い人生のトンネルに入った。 小学校も卒業できなかった少年は、靴磨き、中華料理店の従業員などを仕事を転々とした。 家を見つけて欲しいと警察署に行くこともできない身の上だった。 再び福祉院に送られることが明らかだったからだ。 家族に再会できたのは18才になった年であった。 いつのまにか少年は自分の生き様に責任を負わなければならない成人の入り口に立っていた。 19才の時は困難に耐えられず他人の物に手を付けて刑務所の世話になりもした。 家庭を持って子供をもうけたが、不幸はいつも彼を困難に陥れた。 立派な職場を持つことは容易ではなかった。 10年余り前、妻とも別れた。 「考えてみれば、兄弟福祉院に監禁された監禁されたのが不幸の始まりでした。 兄の家にいたならば技術でもまともに習えたでしょうに。」 無残な過去を回想しながらも彼は一貫して物静かに語り続けた。 福祉院で生活して以後、自己主張ができなくなったと話した。 日常化された暴力はあらゆる方法で傷跡を残した。

現在はパク・イングン院長の息子が代表

 ニュースは見るが、選挙には参加したくなかったと言った。 自分とは関係ない世の中だった。 そんな彼が今年夏、兄弟福祉院を再び思い出したのは、また別の兄弟福祉院被害者ハン・ジョンソン(38)氏の勇気のためだった。 昨春、チョン・キュチャン韓国芸術総合学校教授は、ソウル汝矣島(ヨイド)の国会議事堂前で‘私の話をちょっと聞いてください!’というプラカードを持って1人示威をしていたハン氏に近付いた。 1984年に12才の姉とともに兄弟福祉院に連れていかれた9才の少年の話は<生き残った子供>という本になって出版された。 続けて‘障害と人権草の根行動’等の多くの団体を中心に‘兄弟福祉院真相究明のための対策委員会準備会’が構成された。 これらの団体は全国に散在している被害者の証言と事件関連記録を収集している。 今後、政府の事件真相究明と謝罪を要求する計画だ。

 兄弟福祉院事件は世間の耳目を集めた有名な事件だった。 2000年代には不十分ながら過去事真相究明作業がなされた。 ところでこの事件の真実は明らかになったか、まだ明らかになっていないのだろうか。 "1987年、兄弟福祉院パク・イングン院長が拘束起訴され、個人的不正・横領だけに焦点が合わされた。 浮浪者などは‘収容されて然るべきではないか’という意識が、私たちの社会の底流に流れていて、この事件自体を国家次元の人権侵害犯罪だとは見ていないのだ。 しかも1987年は激変期だったために早く露出したが、早い内にかくされてしまった事件だ。" <国家犯罪>の著者イ・ジェスン建国(コングク)大法学専門大学院教授の分析だ。 被害当事者であるスチョル氏でさえ、自身が体験した困難が‘犯罪’とは感じられなかったと述べた。 兄弟福祉院被害者は国家権力と市民社会から二重に排除された‘権利’を失った人々だった。

 キム・ゲウォンが死に追い込まれる2ヶ月前の1987年1月、当時釜山中央地検蔚山(ウルサン)支庁所属キム・ヨンウォン検事(現 弁護士)はパク・イングン院長を業務上横領容疑などで拘束起訴する。 ところがすぐに翌朝、釜山市長が彼に電話をかけてきた。 "パク院長を拘束してはいけません。 はやく釈放しなければなりません。" 上部ラインは捜査の縮小を勧めた。 パク院長は7回の裁判の末に懲役2年6ヶ月の刑を受け、1989年に釈放される。 最高裁は二回にわたり彼が‘不法’監禁をしていないと判断した。

 パク院長は獄中にあったが、釜山市は法人を生かし続けた。 何回か看板だけが変わった後、現在の兄弟福祉支援財団になった。 パク院長は2011年まで該当法人の理事として活動し、現在は息子のパク・チョングァン(38)氏が代表理事を務めている。 庶民の佗びしいお金がこの法人に流れ込んだ情況も捕捉された。 2005年、法人は収益事業部増築工事費の名目で‘釜山相互貯蓄銀行’から長期借入を始め、2009年までに118億ウォンの融資を受けた。 昨年、釜山市は借入金と関連して特別点検を実施した。 118億ウォンに対する入出金内訳が明確に管理されておらず、40余億ウォンは使途さえ不明だった。 別途の会計監査も受けなかった。

真相究明ための特別法など必要

 "国家に謝罪してほしいですね。" キム・スチョル氏の素朴な願いは、真相究明のための特別法などの制度が用意されなければ不可能だ。 2013年10月25日現在、勇気を出して対策委準備会側に連絡をしてきた兄弟福祉院被害者は、失踪者の家族を含めて31人だ。 "兄弟福祉院の話、たくさん書いてください。 記事になればまた別の被害者も名乗り出てくるかもしれません。" 別れ際にしたキム・スチョル氏の要請だった。 26年間、何も言わずに生きてきた人々の苦痛を、再び無視するのだろうか。 1987年のその時のように、今、その岐路に立っている。

パク・ヒョンジョン記者 saram@hani.co.kr

http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/608953.html韓国語原文入力:2013/10/29 14:29
訳J.S(5068字)