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[ハンギョレが会った人] 北韓医療支援 在米医師 パク・ムンジェ氏

原文入力:2011/11/21 08:32(6253字)


"北韓 結核が多い…韓国が抗生剤工場を建てられないか


←パク・ムンジェ会長が、診療室の前に置かれた中国の思想家であり文学家の魯迅の彫像の前でポーズを取っている。魯迅は日本の医科大学で勉強したが、以後“中国人の身体ではなく精神を治療する医者になりたい”として、文学者として活動した。
ロチェスター/クォン・テホ特派員


パク・ムンジェ会長が北朝鮮助け合いに一肌脱ぐ背景には、つらい家族史が底にある。パク会長の一家には韓国現代史の傷がそのまま刻まれている。


パク会長の祖父は、日帝強制占領期に故郷の済州(チェジュ)を離れ、日本の大阪に渡って暮らし、そこでパク会長の父を育てた。パク会長の父は、解放後にも日本を自ら訪問した。ところが、父が日本に在留中、朝鮮戦争が勃発した。

人民軍がソウルに入った後、歌が上手だった当時女子高校3年だった姉は人民軍交響楽団に入って家族と別れた。パク会長の母は、残った4人の兄弟姉妹を連れて夫の実家があった済州に避難した。中学生だったパク会長は、軍需工場で手榴弾包装工として仕事をし、偶然、米軍通訳兵となり1年半、米軍捕虜収容所で仕事をした。米軍との生活は幼いパク会長に、情緒的不安と民族的侮辱感を抱かせた。彼は済州江汀(カンジョン)村に米軍海軍基地が作られることに強く反対した。彼は“江汀海軍基地は中国との対決でヘゲモニーを取ろうとする米国の国防政策の一環”と主張した。


一方、パク会長の父は、戦争が終わっても韓国に帰ることはできなかった。日本で(朝鮮)総連の世話になったためだ。戦争前には、北韓から‘反動’と言われた父は、今度は南韓から‘アカ’と言われ、どうすることもできない身分になった。父は結局、日本で生涯を終えた。


1961年延世(ヨンセ)大医大を卒業したパク会長は、米国政府から奨学生に選抜され、ミネソタ州立大に留学した。彼は、“韓国を離れたかった”と話した。イリノイ州立大とミシガン州オークランド大学で教授をしながら、母と弟・妹たちを米国に呼びよせた。


北韓で有名な声楽家になった姉とは、別れて43年ぶりに1993年平壌で対面した。“順安(スナン)飛行場に降りたとき、遠くから私を見つけて夢中で走ってくる人がいたんだ。ひと目で、私も姉だと分かった”と彼は話した。10代だった姉と弟は、白髪の老人になって抱き合い、ワーワー泣いた。
インタビュー    2011年11月21日月曜日  29面


北韓医療支援、在米医師パク・ムンジェ氏


米国ミシガン州ロチェスターで、内科医として仕事をしている韓国人医師のパク・ムンジェ(78)朝米医学科学交流促進会(在米同胞連合傘下)会長は、1999年から毎年在米同胞医者たちを引率し、5月初め北韓で開かれる医学学術大会に参加している。


在米同胞医師たちは大会の度に、医薬品と医療機器などを北韓に伝達している。学術大会では在米医師たちが新しい手術法と治療成果などを発表し、北韓も漢医学と西洋医学を組み合わせた分野などでの研究実績を紹介する。学術大会が終われば在米医者たちは第3人民病院など平壌の病院と医科大学などを訪問し、北韓の若い医者たちに医療機器の使用法などを教え、直接患者たちを診療したりもする。


パク会長は来年5月北韓行事のため、すでに訪問を望む医者たちと基金を集めるなど準備作業に動き出した。また、学術大会と医療支援に限定したことから一歩進んで、声楽家チョ・スミ氏とともに北韓を訪問して北韓の音楽家たちと合同公演を開く文化行事まで推進している。ロチェスターの診療室で去る10日(現地時間)パク会長に会った。

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インタビュー/クァン・テホ  ワシントン特派員 ho@hani.co.kr
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97年 北韓の要請で開始後、機器・薬・医術 伝達
“李明博政権では、南韓の医者たちと共にできなくて残念だ”
‘南韓に対する態度を変えなければならない’と、北にも一喝


■ 北韓支援活動   パク会長の北朝鮮助け合いは1997年からだ。96年キリスト医療奉仕会の一員としてインド方面に医療支援に行ったとき、話を聞いた北韓国連代表部からまず連絡がきた。“私たちも少し助けて欲しい”という要請だった。パク会長など在米同胞医師たちがこれに応えた。当時、北韓の食糧危機で在米同胞社会でも‘北韓助け合い’の雰囲気が形成され、教会などで集めたお金で医療機器と薬品を購入して直接送った。そして、99年からはこれを公式化し、毎年平壌人民文化宮殿で学術大会を開く。今までに、救急車、エックス線・超音波・心電図・内視鏡装備なを送ったし、ビル・クリントン政府の時には若い北韓の医者たちを米国に招請し、一ヶ月程度滞在できるようにして心臓手術術なども教えた。


しかし、ジョージ・ブッシュ政府以後、北韓住民たちに対するビザ発給が厳格になり、北韓の医師招請が難しくなった。パク会長はまた、李明博政府になってから、南韓の医者たちが一緒に北韓を訪問できなくなったことについても非常に残念がった。彼は“金大中、盧武鉉政府の時には、南韓の医者たちと共に学術大会と医療支援活動を行ったが、今は韓国政府が北韓訪問の許可を出さず、南側の医者たちが参加できない”と話した。さらに、北韓支援の雰囲気も変わった。彼は“李明博政府以後、同胞社会も分裂した。以前には民主平和統一諮問会議(民主平統)の人々と共に北韓も訪問したが、今は完全に分かれてしまった”として、“教会募金にも困難がある”と言った。


しかし、パク会長は新たに頑張っている。最近、北韓-米国関係が改善される兆しを見せ、融和的雰囲気が形成された上、在米韓国人医師協会等を通じた広報活動強化で、毎年20人ほどだった北韓訪問参加医師たちの数が、来年には50人を越えると期待している。特に1.5世と2世など若い医者たちの参加が眼につく。彼は、“今までは主に北韓に知り合いがいる1世代在米医師たちが、家族訪問を兼ねて参加するケースが多かった”とし、“2世以後に世代がさがれば一つの民族という意識も浅くなるが、来年の北韓訪問を契機に北韓を助けるという願いが、2世の在米医師たちにまで広がれば良い”と話した。


年4億ドルあれば、北の住民たちは飢死しない
融和的関係で北を変化させるのが平和統一の道
“南北が豊かに暮らせてこそ、海外同胞たちもさらに堂々と生きられる”


■ 至急、対北支援を  パク会長は北韓に結核が大幅に増えていると語った。
北韓は70年代に世界保健機構(WHO)から、結核など伝染病を克服した模範国家と認められた国であった。彼は“食糧が足りないとは言え、飢え死にするケースはそんなに多くない。栄養が不足すれば、免疫力が落ちて病気にかかりやすくなり、伝染病が広がることになる。北韓に結核・肺炎など細菌性の病気が増えることが食糧不足と関連している”と説明した。ところが、結核は6ヶ月継続して薬を飲めば良くなる病気なのに、一部の医者たちが支援する程度では限界があるということだ。彼は“行くたびに挫折感を感じる。‘このように非常に小さな部分で、わずかに助けることが何の役に立つのか。自己満足なだけではないのか’という気がする”として“国家的次元の支援がなされなければならない”と話した。彼はまた、“北韓の人たちは、薬を多く使わなくても薬がよく効く”として“南側政府が抗生剤工場を北韓に作ってくれたら良いだろう”と話した。彼はまた、“最近、北韓軍兵役身体検査で対象者の相当数が入隊資格未達であったのは、知的能力が下がったため”とし、(彼らは)“頭脳の発達時期である4~5才時の96~97年に、大飢饉で栄養をまともに供給されなかった世代だ。その時期が過ぎれば、栄養供給がなされても遅れた頭脳発達が回復できない”と惜しんだ。彼は、“年間100万tの食糧があればひとりも飢えない”とし、“お金に換算すれば4億ドル程度なのに、南韓で食堂のゴミを片づける会社の年間予算合計が4億ドル”と比較した。


パク会長はまた、“北韓も感謝するすべを知っている”として、“開城へ行って帰り道に道路周辺で15才ぐらいの美しい少女が羊の群れを追いたてていたが、私たちを見て‘どこからきましたか’と尋ね。‘米国から来た同胞’といったところ、‘あっ、この羊たち米国同胞たちが送った羊たちの子どもよ’といって非常にうれしがった”というエピソードを伝えた。彼は“‘食糧を送れば軍にすべて入り、市民たちには回らず、金正日が下賜したのだろうとだけ思い、南側が支援した物だとさえも分からない’と言うが、北韓の人たちも分かるべきことはすべて分かっている。受ければ有り難く思う。そのように、壁を少しずつ少しずつ崩していく作業をしなければならない”と頼んだ。


パク会長は、昨年の学術大会の祝辞で“ギュウギュウと縛っていれば良いのか、開放をしなければならない”、“2000年南北首脳会談の後、今まで(北韓は)何をしたか。北韓も態度を変えなければならない。金剛山(クムガンサン)観光客死亡に対しても謝って欲しい。南韓大統領に向かって‘逆徒’という表現を使うのも行き過ぎだ”、“南韓が食糧を送れば、北韓の鉄鉱石を浦項(ポハン)に送ったりという誠意の表示でもすれば、対北韓支援を強調する南側の人々に力を与えることができるのではないか”とし、北側当局者たちを戒めた。さらに、彼は北韓当局者たちに“私たちは戦争を望まないとし、国防費5%を毎年減らすと、先ず言うことはできないか”と促しもした。


パク会長は、“北韓も李明博政府になってひどい目にあい、南北関係に敵対的な政府ができればどうなるのか十分に経験した”とし、“それで今度は南側に柔軟な政府ができれば、態度が以前とは大きく変わる”という期待感を表明した。


■ 独特な北韓社会  パク会長は北韓社会は世界でほとんど唯一の独特な体制という点を上げ、“北は絶対に簡単には崩壊しない”と話した。“平壌に行けば大学生たちは、学校の授業を終えて、建設労働現場に行って労力奉仕をします。工場に電気が来ず稼動しないので、労働者たちが集まって‘電気が来ている隣の工場に行って仕事の手伝いをしよう’と決議し、そちら側に行きます。これはすべて、(無理やり)させてできることではありません”とパク会長は話した。パク会長は、これを“朝鮮民族の独特の家族的連帯感が社会主義と結合したのが北韓式社会主義”とし、“西欧の視角では北韓を理解するのが難しいだろう”と定義した。


また、北韓住民の大部分が南韓は豊かに暮らしているということを知っているとパク会長は言った。平壌に現代自動車・三星電子の製品がふんだんに溢れ、密かに接する韓国ドラマや映画を通じて良く知っているということだ。パク会長は、“しかし北韓の人たちは南韓をうらやましがってはいない”とし、“ドラマを通じて豊かに暮らす姿だけでなく、南韓社会の不公平な姿なども一緒に見ているためだ”と話した。平等思想が根強い北韓では、食堂の従業員を呼ぶ時も‘接待員同務、水をいただけますか’というほど礼儀正しくなければならない。4星将軍でも鉱夫でも、引退すれば生活は似たようなものだ。また、現在は絶対不足現象に苦しんでいるが、医療、老後保障、子供の教育などに社会が全て責任を負う構造なので、人々が将来に対する心配と競争にともなうストレスが少なく、北韓の人たちの大部分が体制に対する自負心を持っているということだ。北韓が中国の制度をまねない理由も、まずは金正日国防委員長を中心とした最高位層の崩壊を憂慮するためだが、中国が事実上資本主義体制を導入して深刻な貧富の格差により社会が不安定になるのを見て、そのような社会を願わないためだとパク会長は説明した。


■ 南北融合  パク会長は北韓を訪問し、統一に対する悩みがより一層大きくなり、別途の論文を出すなど北韓社会と統一に対して真剣に勉強を続けてきた。


“北韓の高麗ホテルで朝目覚めれば、周囲でがやがやする声が聞こえるのだが、すべて母国語です。タクシーを呼べば、約束時間より15分ほど遅くきます。北韓にも‘コリアン タイム’があるということですね。南と北が、60年間で大きく変わったというが、私たちは同じ血筋で似ている点がとても多く、一つになりさえすれば即座に融合できるでしょう”と彼は自信を語った。パク会長は、“しかし吸収統一や北韓の突然の崩壊により南韓が占領軍のように北韓に入るならば、さらに多くの問題と社会不安が生じるでしょう。暴動が起きることもあり得る”と、憂慮を示した。パク会長は、“平壌人民大学習堂にこういう句が書いてあります。‘米国が私たちを打てば、2400万の自爆者を覚悟しろ’と。その言葉は、ただ口先だけの話とは聞こえませんでした”と話した。彼はまた、“平壌は韓国戦争の時、米軍の空襲で焦土となり、平壌住民たちの大部分が家族や知り合いを失った経験がある”とし、“それで北韓では米国の侵攻に対する不安感が想像以上に大きく、韓-米軍事訓練をする時は会社員らが銃を持って出勤し、空軍は戦闘機に座って待機状態を維持し、大砲には砲弾が装填されている”と伝えた。


パク会長は、“いかなる社会でも軍は保守的です。吸収統一や米国の侵攻に対する不安感は軍が最も強いのです。南北関係が閉鎖されれば、軍の声が大きくなり、これはまた再び南北関係の閉鎖につながる悪循環を産むことになります”と説明した。したがって、融和的な南北関係を形成し、北韓内の穏健論者たちの力を育て、米国の援助と対外交易を通じて北韓の経済を発展させ、国民所得も高めることが北韓社会を変化させ‘平和統一’に向かう唯一の道だということだ。彼は、“北韓の1人当り国内総生産(GDP)が現在、南韓の20分の1だが、3分の1程度まで上昇すれば南北融合が容易になります。韓民族は本来勤勉で賢く、南韓が助けてあげれば容易にできます。この頃、南韓の一部の若者たちは‘DMZ(非武装地帯)の下で、私たちだけ良く暮らそう’と言うが、北韓が生きられなければ南韓一人で良く暮らすことができますか。また、北韓がこの状態を続ければ、韓国(コリア)の地位が上がるのにも限界があり、私たちのような同胞たちがもっと堂々と生きることも難しくなります”と話した。彼は、“先日のゴールドマンサックス報告書では、‘20~30年後に韓半島統一がなされ、さらに、統一後40~50年後には国防費減少と地下資源活用などにより、韓国の国内総生産が日本を凌駕することになる’と見通していました。私もそのように思います”とし、“みな離れていても私たちの同胞ではないですか”という言葉で長いインタビューを締めくくった。


原文: https://www.hani.co.kr/arti/politics/defense/506358.html 訳T.O