原文入力:2011/11/06 23:47(5858字)
たった19坪のビニールハウスだった
アン・スチャン記者
←去る10月9日午後、ソウル、九老区(クログ)、ソウル朝鮮族教会内に用意された憩いの場で韓国に滞在中の朝鮮族女性たちが談笑を交わしている。鏡に映った彼らの後に各自の衣服が入っている旅行カバンと袋が見える。 写真 イ・ジョンア記者 leej@hani.co.kr
25才のパク・スゥニム(仮名)氏は目の前に広がった光景が信じられなかった。 "我が家だ。" 6才年上の夫が話した。
今まで夫は自分の境遇を語らなかった。五ヶ月前、中国、瀋陽空港でその男に初めて会った時、パク氏の胸には何の波風も立たなかった。結婚はロマンではなく書類に基づくものだった。会うやいなや未婚証明書、婚姻申告書、婚姻関係証明書を韓国・中国の大使館に順に送った。
最後の段階で書類はトラブルに遭遇した。入国ビザが出てこなかった。夫の銀行口座に残高がないことを韓国大使館が問題にした。夫は問題を取り繕った。クレジットカードで現金貸出を受け口座に入れた。その金を返す能力が夫にないという事実をパク氏は知らなかった。
結婚式はしなかった。ドレスも韓服も着ることはできなかった。飛行機が仁川空港におりる時まで、今後どう暮らしていこうかという暖かい話を夫はパク氏にかけなかった。「関係ないと思いました。好きでする結婚ではないから。」夫の友人が小さな青いトラックを走らせて新婚夫婦を出迎えにきた。2001年5月、京畿道(キョンギド)のある小都市にトラックが停まった時、パク氏は大きなビルを見た。ビルを越えて野菜畑につんつんと生えている若いサンチュも見た。
パク氏の暮らしはビルではなく野菜畑にあった。しわになった畝の真ん中に19坪のビニールハウスが建っていた。黒い不織布が屋根の代わりをして薄い合板が壁の代わりをしている小屋のそばにはプラスチックで適当にこしらえた在来式のトイレがあった。「こういうところに人が住んでいるとは想像もできませんでした。」
想像できないことは他にもあった。家具工場、食堂、建設現場、家政婦の労働がパク氏を待っていた。離婚訴訟と未婚の母となる人生も近づいていた。10年後、35才の年齢で閉経期をむかえるようになるとはパク氏は想像もできなかった。
中国を離れ韓国に来た朝鮮族は下層の日雇い労働者に編入される。男は建設雑夫と工場の非正規職、女は食堂のおばさん・家政婦・看病人等として仕事をする。去る20年間、韓国社会の最下層労働を彼らが担当してきたし、その構造は恒久化されるようだ。キム・ミョンファン<黒龍江新聞>韓国支社長は「いくらか金を稼いだ朝鮮族が食堂を運営しているだけで、大部分は肉体労働と食堂の仕事をしている」と話した。去る9月から二ヶ月余りの間‘在韓同胞連合総会’(会長 キム・スクチャ) ‘ソウル朝鮮族教会’(担任牧師 ソ・ギョンソク)が運営する2ヶ所の憩いの場を中心に40人余りの朝鮮族に深層面接した。彼らは名前をあきらかにすることを真剣に憚った。韓国政府とマスコミが権益を守るとも信じていなかった。食事・酒・お茶を共にして永く憩い場で一緒に過ごしても波瀾万丈な人生の素顔を打ち明けるまでには彼らは何度も躊躇した。
韓国の春は馴染み難かった。19坪のビニールハウスの内から見る日差しは透明でなく汚れていた。5月の大気は朝に夕に冷たくビニールの隙間からしつこく吹き込んだ。あなぐらの中にボイラーを入れたが、パク・スゥニム(仮名・35)氏の日々はうらさびしいものだった。
合板で部屋を仕切ったあなぐらの中で姑は嫁に隠れてご飯と果物を一人で準備して食べた。姑が嫁に渡したものは通帳とカードだった。夫にはきちんと決まった職業はなかった。時々、工事現場に出て行った。夫はクレジットカード三,四枚を回してしのいでいた。黒いマグネチックには数百万ウォンの債務がデジタル記録で刻まれていた。朝鮮族の嫁が返さねばならない借金だった。パク氏の新婚生活は切ないものではなく索漠としていた。
中国、黒龍江省の田舎の村に住むパク氏の両親はそのような事情は推察できなかった。 最初から婿の性格を確認しなかった。 韓国に行かなければならない一人娘の暗鬱な境遇は老いた両親にはどうすることもできなかった。
笑顔が可愛い一人娘のパク氏は漢族高中(高等学校)を卒業した。韓国人が経営する会社に就職し一ヶ月に3000中国元(約54万ウォン)を受け取った。毎日金を稼いでいるうちに青春は過ぎ去り恋人もいなかった。
青春を捧げて稼いだ金で吉林省、延吉市(ヨンギルシ)に雑貨屋を出した。タバコ・アメ・菓子・酒を商った。タバコ屋のお嬢さんは近所の工事現場の人夫たちに人気が高かった。煉炭かまどで料理をし弁当も配達した。お金を節約するために店で食べて寝た。窓とドアをしっかり閉めて横になった布団でパク氏は夢を見た。小さくても華やかな食堂を作り、その主人になる夢だった。
ある冬の夜、夢はずたずたに裂けた。店の中に煉炭ガスが充満した。泡を吹いて倒れていたパク朴氏を隣人が発見した。命は取り止めたが、筋肉にマヒをきたし皮膚には黒い斑点ができた。母親は松葉の粉を娘に食べさせた。半年後、元気を取り戻したが、生きることは死ぬことより大変だった。病院代を返さなければならなかった。 中国では大金を作ることはできなかった。唯一の出口は海の彼方に向かっていた。海を越えるには韓国人と結婚しなければならなかった。 叔母の紹介で韓国の男に会った。「第一印象はまあまあでした。」男としては見なかった。しかし韓国人だった。 それで十分だった。(注*)
韓国に来て一ヶ月後にパク氏は家具工場に就職した。家具運びが手に負えず町の食堂に働き口を変えた。夫について工事現場に出て行き清掃をしたりクギ打ちもした。 後日、家政婦の仕事もした。一人暮らしの女主人はウサギを育てていた。「最初は二匹でしたが一匹は死にました。よく面倒を見て下さい。」ソウル所在のある大学の音楽科教授だった。孤独なウサギは広い家を思いのままに跳ねまわり高価な家具をかじった。教養のある女性教授はそのようなウサギを心から慈しんだ。パク氏はウサギの後を付いて回って食べさせ世話をした。一日に5万ウォンを受け取った。(注**)
ウサギのように孤独だったパク氏は自由に通うことはできなかった。夫は毎日酒に酔い、仕事に出かけたパク氏に電話をした。「早く帰ってこい」それだけ言って電話を切った。電話はずっと続いた。ビニールハウスに撤去通知書が舞い込み、半年間で貯めたお金で借間を探し当て、日雇い仕事で稼いだ金でカードの借金 数百万ウォンを返しても、酒にやつれた夫の電話はやまなかった。
その結婚を通じて夫がパク氏にしてくれたことはたった一つだった。夫の招請で中国にいた両親が韓国に働きに出てきた。大きな助けにはならなかった。父親はケガをして、母親も家政婦の仕事は手に負えないと言った。年老いた実家の両親はすぐに中国に帰った。(注***)
書類に基づく結婚は内部から崩れた。結婚後3年でパク氏は借間を飛び出した。夫は報復した。家出したパク氏の住民登録を抹消させた。パク氏は寝つけなかった。20日間眠れないこともあった。 紆余曲折の末に離婚した。うつ病に勝つために友人たちと酒も飲んだ。意外なことに妊娠した。
一人で中国の実家に帰りからだを休めた。女の子だった。結婚した義兄の戸籍に娘の名前を載せた。パク氏は五ヶ月間、娘に乳を含ませた。 娘のためにお金が必要だった。もう一度の出口は韓国にあった。泣く娘を実家の両親に預けて韓国に入り食堂の仕事を始めた。(注****)
パク氏の人生はロマンではなく書類に基づいたものだった。手に入れなければならない書類が多かった。住民登録を取り戻し韓国国籍を得て離婚訴訟を終わらせ中国にいる娘を韓国に連れてこなければならなかった。無料法律相談所を訪ね歩いた。
書類は最後の段階でトラブルにあっている。中国国籍の義兄の戸籍に載せた娘を韓国国籍のパク氏の戸籍に移す件が解決できていない。もがいているパク氏にある弁護士が話した。「そうだね、もうちょっと誠実に暮らさないとね」去る10年間、不誠実に暮らした瞬間がいつだったのか朴氏には分からない。
パク氏はソウル、江北のある豊かな町内で月給200万ウォンの住み込み家政婦暮らしをしている。「それでも今はずいぶん安定しました。」小さな借間も見つけたし、酒を飲む夫もいなくなった。中国にいる娘さえ連れてこれればいいんです」。「韓国の学校に行かせて、したい仕事をしながら幸せに暮らせるようにしたいです。」(注*****)
つましい恋愛の一度もできなかったパク氏には再婚する意思はない。先日から生理がなくなった。「更年期が早くきましたね。」訪ねて行った病院で医師が話してくれた。35才でパク氏は閉経を迎えた。「熱心にお祈りしています」パク氏は唯一の休日である日曜ごとにソウル朝鮮族教会に行き賛美歌を歌う。 朝鮮族出身韓国人パク・スゥニム氏には死んで天国へ行く福音だけが唯一の安らぎだ。
アン・スチャン記者、イ・サンウォン(慶北(キョンブク)大経営学部)、アン・セヒ(世明大ジャーナリズムスクール)インターン記者 ahn@hani.co.kr
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注* 1980年代中盤から韓国居住親族の招請を受けた朝鮮族が入国し始めた。親戚訪問の名目だったが、長期不法滞留する事例が多かった。韓-中修交直後の1993年、2年間就職できる‘産業研修生制度’が実施され、朝鮮族が大挙入国した。長期不法滞留する朝鮮族も急増した。 資格を得られない朝鮮族の女性たちは韓国人と結婚し入国する方式を好んだ。2004年外国人勤労者雇用許可制、2007年訪問就職制などの実施により弊害は減ったが、長期滞留資格対象を拡大してくれという要求は続いている。 長期滞留を望む理由は簡単だ。 月80万~150万ウォンの賃金では当初目的とした金を貯められない。少なくとも5年間、韓国極貧層の生活に耐え月50万ウォン以上を貯蓄してやっと数千万ウォンのお金を貯めることができる。
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注** 中国では高中(高等学校)さえ卒業すれば専門職として働けるが、韓国では効果がない。日用雑夫の他にはできる仕事がない。中国で公務員だったチュ・ヒョンシク(仮名・48・韓国滞留4ヶ月)氏は食堂・部品工場を経て建設現場で働いている。中国で技能工だったイ・ギシク(仮名・45・韓国滞留9年)氏はドラマ エキストラ・電線配設工・建設日雇い・農場雑夫などとして仕事をした。中国で教師であったチョ・ヒョンスン(仮名・54・韓国滞留13年)氏は10年間、食堂のサービングを続けた。夫が大学教授だったパク・シンジャ(仮名・65・韓国滞留3年)氏は食堂補助・家政婦・清掃夫・看病人等として働いた。
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注*** 朝鮮族の移住は‘雪だるま’式に進行される。ひとりが韓国に入り基盤を用意すれば家族・親戚が一度に入国する。韓国人と結婚した朝鮮族が決定的な役割をする。 国籍取得前にも韓国人配偶者を通じて家族・親戚を‘招請入国’させられる。チュ・ヒョンシク(仮名・48)氏は1991年に偽装結婚を通じて韓国国籍を得た母親の招請で入国した。彼の妻、弟、妹も皆同じ方式で入国した。キム・インシク(仮名・50・韓国滞留6ヶ月)氏は安山工業団地で働く妻の甥の招請で妻とともに入国した。 姻戚夫婦も韓国で仕事をしている。 妻の甥の紹介でキム氏は工場で働き、キム氏の妻は義母の紹介で食堂の厨房で働いている。
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注**** 夫婦揃って韓国にくれば中国にいる子供の教育に問題が生ずる。子供の教育のためにどちらか一方だけが韓国にくれば夫婦関係に問題が生ずる。韓国滞留朝鮮族の相当数が男女関係から始まった家族解体と再構成を体験している。キム・ジェヨン(仮名・54・韓国滞留5年)氏は中国にいた妻と7年前に離婚し、韓国国籍の朝鮮族女性と再婚した。相手もやはり再婚だった。離婚した妻は最近韓国に出てきて働いている。 チ・ヒョンス(仮名・50・韓国滞留3年)氏も妻と離婚して一人で暮らしている。妻は韓国人と再婚した。ハン・コンヒ(仮名・52・韓国滞留4ヶ月)氏の妻は20年前に韓国に来て帰り、また米国に発った。「事実上離婚状態」とハン氏は話した。キム・ヨンヒ(仮名・57・韓国滞留10年)氏は入国以後、中国にいる夫との連絡が途切れた。離婚はしていないが「消息は全く分からない」とキム氏は話した。憩いの場で会った朝鮮族は「孤独だ」という話をたびたびした。 同じ文化を共有する朝鮮族の異性と会うことは深刻なストレスに苦しめられる彼らにとって唯一の安息だ。
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注***** 出入国統計によれば、2011年6月現在、韓国に滞在中の朝鮮族は45万7000人余り(不法滞留者 1万9000人余りを含む)だ。2010年末までに韓国に帰化した朝鮮族は7万7000人余りだ。少なくとも50万人余り(帰化者含む)の朝鮮族が韓国にいる。韓国人口(5050万人余り)の1%程度で、中国朝鮮族人口(190万人余り)の20%を越える。去る10年間、朝鮮族の韓国入国は一貫して増加した。90日以上長期滞留する‘登録外国人’基準で見れば、2001年4万3000人から2010年には36万6000人へ10倍近く増えた。
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/504216.html 訳J.S