原文入力:2011/11/03 20:33(5320字)
胸に穴が開いた朝鮮族の子供たち
アン・チュサン記者、イ・ジョンア記者
←学校の授業が終わった午後・夕方の時間にも柳河(ユハ)朝鮮族中学生たちは教室で特別活動をする。見てくれるおとながいなくて寄宿舎生活をしている学生たちのためだということだ。 柳河/イ・ジョンア記者 leej@hani.co.kr
1910年8月29日、日帝が朝鮮を強制的に併呑した。朝鮮の農民は秋の収穫が終わった冬と翌年の1911年をたどりながら朝鮮の土地を離れた。先に離れた人々は朝-中国境付近の延辺に、後から離れた人々はさらに遠く黒龍江付近に居を定めた。彼らは独立運動、解放、国共内戦、韓国戦争、文化革命、改革・開放などを全身で体験した。 中国東北3省(吉林省・黒龍江省・遼寧省)に密集した朝鮮族190万人は激動の現代史の中で北韓、韓国、日本、米国、そして中国沿海・内陸の大都市に再び旅発った。 50万人は韓国、10万人は米国・日本・ヨーロッパ、50万人は中国沿海・内陸都市に行った。 学界の表現を借りるなら、世界史に類例のない巨大な‘ディアスポラ’(移住・離散)だ。 去る7月から4ケ月にかけて中国、吉林省の柳河、中国、山東(サントン)省の青島、韓国ソウル、日本東京、米国ニューヨークなどを現場取材した。 学校、村、食堂、教会、職業斡旋所、労働現場などを訪ね歩いて90人余りの朝鮮族に深層インタビューをした。一部地域では集団アンケート調査を実施し、関連単行本・研究論文・学位論文など4500余枚の資料も検討した。朝鮮族は中国の地で過ごす韓半島出身種族集団を称する中国政府の公式名称であり、国内学者らも広範囲に使う民族概念だ。 朝鮮族たちも自らを朝鮮族だと呼ぶ。2部8回にわたり連載される今回の記事では‘在中同胞’でなく‘朝鮮族’の名前で彼らを見ていく。
白頭山(ペクトゥサン)の山裾、海抜2500mでふと一筋の泉が湧いている。 冷たい泉は重力の導きで西側の低いところへ流れる。鴨緑江(アムノッカン)だ。川を抱いた山が初めて平地に出会う。北韓、満浦市(マンポシ)だ。ここで川は原野かきわけ静かになる。水深は浅く川幅は狭い。何度か潜りをすれば川の向こう側の中国集安市に行きつく。
100年前、彼らは韓半島から大陸へ向かう最も近い道を求めて川に来た。ここから集安市をすぎて70km余り北に走れば通化市だ。60km余りさらに進めば柳河県だ。国境都市から近くも遠くもなく、のどかに静まりかえっている農村だ。隠密な闘争を謀議するのにぴったりの場所だ。
1910年末と1911年初め、イ・フェヨン、イ・シヨン、イ・サンリョン、イ・ドンニョンなど40人余りは家財をはたいて韓半島を離れ、柳河県に到着した。彼らは柳河県に史上初の朝鮮独立運動基地である新興講習所(後日、新興武官学校)を建てた。 イ・チョンチョン、イ・ポムソク、キム・サンなど3500人余りの独立軍を輩出した。
彼らは軍事学校と連係した教育機関も建てた。1912年に設立した恩養学教だ。卒業生は新興武官学校へ進学し独立軍になった。日帝、漢族土匪、中国国民党などにより数回廃校になったが、学校は名前を変えて場所を移してしぶとく再開した。中国、吉林省、柳河県、柳河朝鮮族完全中学校(以下、柳河朝中)はそのようにして99年を過ごした。来年は開校100周年だ。 朝鮮族教育機関の中で最も古い。
100年前、独立運動のために建てた吉林省柳河県完全中学校は朝鮮族の移住により学生たちが減る中で唯一残った学校だ。
100年の歴史ではなくとも柳河朝中は朝鮮族の表象だ。「私たちが最後の学校です。」朝鮮語文を教えるキム・ギョンス教師が話した。 90年代初め、柳河県の朝鮮族中学校は26ヶ所だった。以後、全て統廃合された。2005年から柳河朝中だけが持ちこたえている。
それは終わりではなかった。去る7月、柳河朝中初中課程(中学校)を卒業した学生は50人余りだ。9月の新学期に初中3学年(中学校3学年)になった学生は40人余り、2学年は30人余りで、今年の秋に入学した1学年の新入生は30人に少し足りない。キム教師が柳河朝中に初めて赴任した1997年、新入生は160人余りだった。 ますます新入生が減っている。
子供たちに起きていることは両親と関連が深い。<ハンギョレ>がこの学校の初中2学年27人にアンケート調査をした結果、両親とともに暮らしている学生は5人(新しい両親を含む)だけだった。 一人で暮らす学生は3人だった。 残りは祖父母または、父子・母子と暮らしている。27人の学生の両親54人の中で36人が金を稼ぐために故郷を離れた。3年以上、柳河を離れているケースが17人だった。(グラフ参照)
両親たちは子供のために故郷を離れる。子供の教育・結婚費用を賄うには大金が必要だ。子供たちの考えは少し違う。「作文をすれば、学生たちが‘お金は必要ありません。帰ってきて下さい’と書きます。」キム・ギョンス教師が話した。両親が離れた柳河で学校は門を閉め、学校のない柳河で両親は異郷に離れる。一連の事件がかみ合わさって事態を拡大する。
2年生の両親54人中36人が出稼ぎで韓国に向かった。
子供たちは一人で暮らしたり片親と暮らしている。
チェ・ムンシルも数年前に母親に話した。「もう中国に帰って来てください。」ムンシルが初中1学年の時だった。「もう少ししたら帰るから。」電話の向こう側の韓国で母親が話した。ムンシルはもう高中(高等学校) 2年になった。母親は相変らず韓国にいる。
ムンシルが6才の時、父親が、10才の時には母親が韓国に行った。去る5年間、ムンシルは弟と過ごした。他のおとなは一緒に暮らさなかった。父方の兄弟姉妹8人と母方の兄弟姉妹3人はすべて韓国にいる。建設現場で仕事をしている父親は中国に戻るつもりがない。食堂の仕事をしている母親は半年ごとに来て、一ヶ月ぐらいするとまた帰る。
ムンシルの前で母親は右肩と腕が痛いと話した。ムンシルも痛かった。しばしば熱を出し頭が痛かった。最近では初中に通う弟の欠席が頻繁になった。弟は腹痛を訴えている。それが心の病気なのか、からだの病気なのかは定かでない。
初中2学年のキム・ヨンチョル(仮名)は憂いを自ら払いのけた。小学校入学後ずっと寄宿舎で過ごしたヨンチョルの記憶の中に母親の顔はない。小学校の時、アルバムを検索した。「お母さんの姿を見たくて探してみたが、ありませんでした。一枚も。」小さく背の低いヨンチョルが小さく低い声で話した。「その時から私は一人で暮らさなければならないと決心しました。」
英哲の母親は北韓脱出者だった。結婚適齢期の朝鮮族女性が減り、朝鮮族男性と脱北女性が結婚することが起きた。ヨンチョルが4才の時、北韓脱出者の母親は中国公安に捕まり北へ送還された。母親が捕まった後、父親も韓国に発った。父親は3年に1度、中国にくる。中国にくれば父親は酒をたくさん飲む。
去る8月、柳河朝中初中課程を卒業したリナムの家族構成は少し複雑だ。リナムが5才の時、両親は離婚した。中国、青島と韓国、水原(スウォン)で永く働いた父親は昨年初めに再婚した。新しい母親にはリナムと同じ年頃の二人の息子がいる。父親と新しい母親は今韓国にいる。新しい母親の二人の息子はそちらの祖父が世話を見ている。リナムは寄宿舎で過ごす。両親がいない思春期をリナムは黙々とよく耐えている。 クラスでは1,2等を争っている。すべての学生がそうではない。
激変の現代史の中、再びディアスポラを体験する朝鮮族.
心の病に罹る子供たちは話す。
“お金は必要ありません、家に戻ってきて下さい。”
キム・ギョンス教師は昨年卒業したある学生の話を聞かせた。「相談なんだけど、‘母親を殺したい’と言いましたよ。」両親は離婚した。母親は韓国で再婚した。 家を離れた父親は行方不明になった。 一人で過ごした少女の怒りは卒業頃に徐々に消えてきた。作文の時間に「もう嫌わない」と書いた。しかし思春期を揺るがした悲しみは一生、波風を立てるだろう。
“両親の内 1人でも家に残らなければなりません。”ウォン・テオク教師は父母会議がある度に話す。夫婦が同時に韓国に行くことは避けなければならないという要請だ。「両親が離れれば子供たちの情緒と成績はもちろん、生活の各方面にあまねく良くない影響を与える」とウォン教師は話した。柳河朝中学生600人余り(初中120人余り、高中480人余り)の中で400人余りが寄宿舎生活をしている。朝鮮族の学校が減り近距離通学が不可能になったためもあるが、見てくれるおとながいなく寄宿舎で宿泊を解決するケースが多い。
如何に多くの朝鮮族が柳河県を離れたかは正確でない。10年以上、他の領域に住みながらも柳河の住民登録を維持している朝鮮族が多い。5年前の人口調査で柳河県全体の人口38万人の内、朝鮮族は2万7千人だった。今年の資料を見れば、朝鮮族は2万3千人だ。
←柳河朝中学生たちが民族伝統のチャング(鼓)踊りの練習をしている。財政にゆとりがなく、柳河朝中教師たちが廃品を集めて直接チャング数十個を作った。柳河/イ・ジョンア記者
柳河県、永豊村のチョン・ムンチョル書記は「実際、朝鮮族はそれよりはるかに少ない」と話した。彼の推定によれば、朝鮮族2万3千人は概略6千余世帯に該当する。世帯ごとに1人ずつ子供がいるならば、6千人余りの朝鮮族学生がいなければならない。「柳河県の小・中学校をみな合わせても朝鮮族の学生は1千人もなりません。 残りの5千人はどこへ行ったかと。朝鮮族の学校が朝鮮族の全てなのに、なぜ閉鎖したかと。」
チョン書記は「社会・文化・家族教育を受けることができない子供たちが‘韓国ブーム’の最大の被害者」と話した。「私たちの生きるこの世が憐れで、こういう話す私の心が憐れですね。」吉林省延辺朝鮮族自治州の朝鮮族学校が1990~99年の間に49.38%減少したという記録がある。 その後、さらに多くの学校が消えたが、中国東北3省を合わせた正確な数値は知られていない。
数字より体験が時にはさらに強力だ。リュ・ボクリョは柳河朝中校長は1997年にこの学校に来た。 1980年から柳河県一帯の朝鮮族小・中学校で教えた。「今見ると私が仕事をした学校は全てなくなりましたね。」教師初年時期を回顧したリュ校長が苦々しそうに話した。去年の春、リュ校長は旧朝鮮族小学校跡に行ってみた。「荒廃して心が痛みました。」木材工場ができたところに学校の痕跡はなかった。
柳河朝中までが同じ運命に処するかと思い、教師たちは決断を下した。1997年から高中課程に漢族学生を受け入れた。初中課程は義務教育だが、高中からは学費を出す。 学生が増えれば政府の支援金も増える。高中を漢族に開放し学校経営に少しゆとりができた。「それでも初中課程が私たちの学校の核心ですね。」リュ校長が話した。初中課程には朝鮮族だけを入学させている。最後の学校を守るための最後の砦だ。「悪戦苦闘しています。」キム・ギョンス教師が話した。 柳河/アン・スチャン記者 ahn@hani.co.kr
※柳河朝中を応援してくださる方は qingxiu123@hanmail.net (キム・ギョンス教師)へ問い合わせて下さい。第2回‘お客さんの一生’へ中国朝鮮族の村の話が続きます。
←朝鮮族移住史
←朝鮮族大移住 100年・柳河朝鮮族中学校 100年(※クリックすればさらに大きく見ることができます)
東北朝鮮族 半数が故郷を離れ ディアスポラ
朝鮮族の移住は一挙に大人数が移動する‘ばね方式’で進行している。1910年頃、中国東北地域の朝鮮族は20万人余りだった。30余年後、その人口は210万人余りに急増した。解放直後、100万人余りが一気に韓半島に戻った。しばらく静かだった大移住は1990年代以後、20年余りの間に東北地域朝鮮族190万人の内、100万人が故郷を離れることで再現された。
20世紀初期、中国東北地域に移住した朝鮮族の大多数は飢えから逃れようとする農民だった。1990年代以後の爆発的移住にも経済的動機が作用した。中国の改革・開放で都市農村間の貧富格差が広がった。漢族農民は中国沿海・内陸都市へ機会を模索した反面、朝鮮族は同じ血筋のいる韓国に注目した。朝鮮族は永く巨大な‘農村共同体’を中心に集団居住しながら民族のアイデンティティを維持してきた。最近の朝鮮族大移住はその基盤を蚕食している。
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/503911.html 訳J.S