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「国民主義」に閉じ込められずに日本を眺める

徐京植の日本通信
原文入力:2011/09/23 20:48 (2492字)

社会の人を「国民」という指標で一括してしまい、自らもそこに含め類型化することで安心しようとするのが、「国民主義」の心性だ。国民主義に根をおろした単純な日本理解は、日本の中間派やリベラル派の限界や問題点には鈍感で危険だ。

← 徐京植(ソ・キョンシク)東京経済大学教授

今回の記事から「日本通信」というタイトルで連載をすることになった。このタイトルは私が提案した。提案理由は大きく2種類ある。一つは、今までも強調してきたことだが、これからはますます「日本」が重要な問題として、私たちの前に浮上することになると思われるためだ。「私たちの」とは「韓国人」に限定した意味ではない。東アジアと世界平和を望む多くの人々だ。過去約10年間、すでに衰退傾向を示していた「日本」は、今年3月の大地震と原発事故による打撃を受け、これから徐々に没落の道を歩むことになるだろう。経済力の側面だけでない。大地震に対する対応において決定的に現れたように、日本型政治システムが機能不全に陥り、階層間格差拡大と社会保障制度破綻などの問題に対処できず、社会的混乱と不安が長く続くだろう。 その否定的影響は日本国内に居住する人のみならず、必然的に周辺各国の住民たちにも及ぼすことになるだろう。

新しく就任した野田佳彦総理は、「A級戦犯は戦争犯罪人でない」と公言する右派で、次世代指導者の有力候補の前原誠司民主党政調会長は、憲法9条改正論者だ。与野党を問わず既成政界に対する失望感が広がるにつれ、「強力な指導者」を待望する大衆の期待感が高まり、石原慎太郎東京都知事のような根っからの極右政治家だけでなく、橋下徹大阪府知事のように時流に便乗した右派ポピュリストが人気を集めている。彼ら全員が、戦後日本で広く共有された平和主義と民主主義理念を、現在の混乱の原因と心に刻み、それを否定することにより現状を打開しようとする傾向を育てている。

歴史的に国内批判勢力が非常に脆弱な日本では、「日本は外圧によってのみ変わることができる」というシニカルな話が定着しているほど、変革を要求する批判はいつも「外部」から来るとされている。批判勢力側も多くの場合、「米国が、または、中国が、または、国際社会が要求するから」という形式の「外圧」に便乗するレトリックに依存してきた。例えば、学校での国旗国歌強要に反対する勢力でさえ、「学校には在日韓国・朝鮮人の生徒もいるから」という類の話を、何の疑いもなく繰り返してきた。

ならば、日本に在日韓国・朝鮮人がいなければ問題ないのか? 天皇制を賛美する「君が代」、近代日本の対外侵略旗だった「日の丸」を、日本国民自身はどう思っているのか? こういう没主体的なレトリックを私は、「人の褌で相撲を取る」という日本特有の語り口で評したことがある。日本国民に広まっているそのような心理構造を変えない限り、今日のように出口が見えない危機的状況では、「内部」の結束と「外部」に対抗する実力(軍事力)強化という危険な主張が、大衆の支持を得ることになる。 ポピュリストは大衆の支持を引き付けておき、それをより一層拡大するために、ますます主張を単純化して極端化して行く。

私は12~13年前、国旗国歌基本法が制定された時、抵抗の兆しさえなかったので、「日本の戦後民主主義は安楽死するだろう」と言ったことがある。今は残念ながら、その悪い予感が着々と実現されてきたことを実感するだけでなく、日本単独で「安楽死」さえしてくれれば、かえって幸いだと考えるに至った。歴史の教訓はその危険性を予告している。

私が「日本通信」というタイトルを提案したもう一つの理由は、知識人層を含む韓国国内の人々の日本理解に対して疑問、さらに明確に言うならば、危惧の念を持っているためだ。日本と韓国が地理的に近く、歴史的にも密接で互いにからまっているのに加え、留学生など人的交流がこのように活発なのに、韓国人の多数は、日本を正しく理解できなくなっているようだ。「日本人は悪辣な右翼だけだと考えたが、直接会ってみると礼儀正しく親切だから、日本を好きになった」という類の反応が典型的に示すように、韓国で教育やメディアを通じて習った日本理解は非常に一面的なので、一面的な先入観が崩れると、容易に日本肯定論に陥ってしまう。それは「韓国人は無礼で乱暴だと考えたが、直接会ってみるとそうではなかった」という日本人多数の反応と似た形だ。

どの民族国家でも、ひとりひとりは、良い人もいて、そうでない人もいる。ある民族全体をすべて良い人や悪い人だと考えてしまう考え方こそ危険なのだ。3月の地震直後に日本で起きた「日本は強い国」「がんばれニッポン」などのキャンペーンも、それに呼応して韓国で高まった極めて情緒的な日本同情論も、同じように単純な発想の産物だ。そのような単純な類型化の基底を成しているのが、ある社会の人々を「国民」という指標で一括してしまい、自らもそこに含めて類型化することによって安心しようとする「国民主義」心性だ。この心性は、「国民」内部の違いや対立を隠し、同時に内部の他者を常に外部化して排除しようとする機能を持つ。

国民主義に根をおろした単純な日本理解は、日本の中間派やリベラル派の限界や問題点に対して鈍感だが、それこそ危険なのだ。韓国の人々が日本を正しく知っていることは、「韓国」という国家のためでなく、東アジアに住む私たち全員の平和のために必要なことだ。

これから私が書いていく「日本通信」は、他者を威嚇しながら没落していく日本という社会に生きるひとりの「内部の他者」が書く報告書になるだろう。日本に住む個人が、日常生活において感じる各種問題を、具体的なエピソードとともに伝えることになるだろう。

徐京植(ソ・キョンシク)東京経済大学教授
翻訳 ハン・スンドン論説委員 sdhan@hani.co.kr
原文:https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/497740.html 訳 M.S