原文入力:2011/07/02 01:08(1740字)
‘ナンソゴン(※)’作家 人権連帯12周年記念式で演説
"韓国は今、全てが原点に戻った…戦え"
※1975年に発表された小説"난쟁이가 쏘아올린 작은 공"(小人が打ち上げた小さい球)の語頭を取り난쏘공として親しまれている。(訳注)
←‘小人が打ち上げた小さい球’を書いた小説家チョ・セヒ先生が1日、ソウル、麻浦区、麻浦アートセンターで開かれた人権連帯12周年創立記念式に参加し演説している。 写真 キム・ウォン人権連帯会員提供
"怒って下さい。怒るにはとても力が必要です。韓国は今全てが原点に戻りました。この頃、涙ぐましい現場の話が私たちの胸をぎゅうぎゅう押しています。工場での人生が非人間的ならば工場が改造されなければなりません。国会がまともにできなければ国会が改造されなければなりません。" <小人が打ち上げた小さい球>を書いた小説家チョ・セヒ先生が1日、ソウル、麻浦区、麻浦アートセンターで開かれた人権連帯12周年創立記念式に参加し若者たちに怒ることを注文した。
チョ・セヒ先生はこの席で「皆さんは独裁者にきちんと抵抗できず、不服従で幸福させることもできず、皆さんの働き口も作ることが出来ない第3世界の父親たちの子供」としながら「父の世代の誤りを記憶し冷笑主義者にならずに戦え」と話した。
チョ・セヒ先生は肺気腫などで痛むからだをおして演壇に立ち、40分間余り演説を続けた。しかし病魔による痛みではなく2005年11月15日、ソウル、汝矣島の全国農民大会で警察の鎮圧過程で警察に頭を殴られ死亡した二人の農民の死を呼び出した。
"私は病んでいます。この頃。この頃ではなく正確に言えば2005年11月15日。大韓民国という地に生まれ色々な制限条件または、背中に重い荷物を背負って生きてきて、それは違うと考え、いくつか国家に伝えるために汝矣島に上がってきて その国家を支える大きな力の一つである警察3ヶ部隊の鎮圧作戦にまきこまれお二人が亡くなった日、その時から私は(息を切らしながら)病んでいます。"
二人の農民の死から演説を始めたチョ・セヒ先生は、1970~80年代成長主義時代を経てきたが、相変らず土建事業に没頭する李明博政府に対して鋭く批判した。チョ・セヒ先生は「一気に京釜高速道路を貫通させたが、今の4大河川も同じこと」として「欧米・ヨーロッパで建物を一つ作り橋を一つ作るのに数百年かかることを、私たちは焦ってやっている」と指摘した。
チョ・セヒ先生はこういう‘性急な性質’にもかかわらず、結果は相変らず‘元の場所’であることを指摘した。
「朴正熙の時、何と言いましたか。私たちはまもなく先進国になると言いました。盧泰愚の時、全斗煥の時、数年後に私たちは全世界で最も先頭に立つ優れた国家になる。すべての人々が我が国にきて学ぶ。そのような幻影のような話をしまくりました。しかし、私たちは今 過大評価をしても2.5世界に到達して生きています。国民総生産(GNP)は相変らず2万ドルを越えられません。アジアでこんなに熱心に働いて、ウーウーしながらどうなりましたか? 2.5世代に来ています。」
チョ・セヒ先生はヤスパースを引用し、こういう現実に対して皆が共同の責任を負わなければなければならないと指摘した。「人間と人間の間には連帯感が存在するから、一人一人は世の中で起きるすべての誤りと不正、行われる犯罪に責任を負わなければならない。悪を阻止するために自分ができることをしなければ、それに対する責任を一緒に負うことになる」
チョ・セヒ先生は最後に怒って冷笑しないことを注文した。「皆さんは未来のこの地の希望であり主人であり、世界史を共にしなければならない未来」とし「現実を悲観したり冷笑するな」と語った。
文パク・スジン記者 jin21@hani.co.kr 写真 キム・ウォン人権連帯会員提供
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/485534.html 訳J.S