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韓半島平和を叫んだ老兵は消え去るのみ

原文入力:2010-12-05午前10:16:39(4975字)
真実のために戦ったリ・ヨンヒ先生の生涯

知識が犯罪だった野蛮の時代に自由と責任を実践

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 "老兵は決して死なない。ただ消え去るのみだ。" 去る5月、重い病の中で娘さん口述した<ハンギョレ>創刊22周年激励メッセージで、リ・ヨンヒはダグラス・マッカーサーが自身の退任の辞で引用し有名になったこの19世紀末の風刺歌の一節を思い出させた。その話をした将軍を尊敬してはいないとしながら彼は "(<ハンギョレが>)生まれた20余年前の状況のような険しい現実" が再び訪ねてきたのに "皆さんと同席できないということを強く悲しむ" と話した。

彼が‘野蛮の時代’といった韓国現代史の迷夢を醒まさせた‘最も影響力のある’知識人(1999年<延世大学院新聞>調査など)であり、彼を恐れ嫌った者たちには‘意識化の主犯’でもあった リ・ヨンヒはついに消えた。しかし "私が皆さんの記憶から消えてもハンギョレ新聞の未来とずっと共にいるだろう" とした彼の話の通り、彼は決して死にはしないだろう。

 "私の人生を導いてくれた根本理念は‘自由’と‘責任’だった。 …真の知識人が本質的に自由人である所以は、自らの人生を自ら選択し、その決定に対し責任があるだけでなく自身が存在する社会に対して責任があるという信念だった。この理念に従って、私はいつも私の前に投げかけられた現実状況を黙認したり回避したり、または状況との関係設定を棄権でごまかす態度を知識人の背信として軽べつし警戒した。社会に対する背信だけでなく、それ以前に自身に対する背信だと考えてきた。こういう信条としての人生は、いつの時代どの社会でも例外なく刑罰だった。理性や知性どころか常識でさえ犯罪と規定された大韓民国では。" (<対話>2005年)

40年前にリ・ヨンヒは常識さえもが犯罪となるこの地の現実を‘条件反射のウサギ’に比喩した。皆が口を閉じたまま、"‘中共’という言葉を聞いただけで即刻に‘飢餓’‘傀儡’‘皮骨相接’‘野蛮’‘無科学’‘反乱’‘政権打倒’‘侵略’‘好戦’…" 等を思い出させるように訓練された条件反射のウサギたち。‘中共’の代わりに‘北韓’に代えてもおかしくないとすれば、私たちは今でもウサギから相変らず抜け出せずにいるわけだ。リ・ヨンヒが「20余年前の状況のような険しい現実」が再び到来していると警告したのもそのためだろう。

1970年代、韓国社会に強力な知的衝撃波を加え、リ・ヨンヒの存在を大衆に本格的に知らせた初めての単行本<転換時代の論理>(1974年)に再収録された‘条件反射のウサギ’(1971年発表)で、彼はウサギの檻から抜け出さなければなければならないと切々と訴えた。"はるか水平線上にシワのような波が徐々に近づいているのが見える。シワのように識別もできない小さな波が、私たちの視野の中に入る時にはその一つ一つが津波のような爆発力を持った波であることを知ることになるかも知れない。足下に視線を置くのではなく、世界という広い水平線の上に視線を移さなければならない時がきた。そして、迫り来る世界情勢の波の中で強硬に、賢明に、そして平和に私たちの生を営むためにしなければならない第1の課題は思想の条件反射的ウサギになってはいけないことだ。"  1971年末、中国(中共)が国連安保理常任理事国になり、台湾は押し出された。翌年、ニクソンが中国を訪問し、ベトナム戦介入のためにトンキン湾事件を操作した事実を暴露された米国は、アジアで日本の役割を強化するための再武装を急ぎ、韓国をその下部体制により一層深々と縛り付けた。韓半島安保地形を変えてしまったその津波の延長線上で‘10月維新’が宣言され、朴正熙永久執権体制が始まった。人々は全く知らなかったし、そんなことが広まった後にも その意味を正しく理解できなかった。それを看破し‘刑罰’を甘受して大衆に知らせた人がリ・ヨンヒだ。 苦悩と光栄が共存した、その激しい作業は生涯中断されることはなかった。

<天体の回転に関して>を‘事実’ではなく‘仮説’として発表しなければならなかったコペルニクスのように、やはり‘仮説の解説書’であることを序文に書かなければならなかった<転換時代の論理>は1977年、その年に出された<偶像と理性>、<8億人との対話>とともに、ウサギの檻に閉じ込められることを拒否した彼を反共法の名で2年間 監獄に閉じ込める口実になる。そして1980年‘光州騒擾背後操縦者’として拘束、その年に再び教授職から解職(1976年に1次解職),1984年 キリスト教社会問題研究所主管 反統一的教科書是正研究会指導事件で拘束、1989年<ハンギョレ>創刊記念北韓取材団訪北企画事件で拘束など計9度にわたる連行と5度の起訴あるいは起訴猶予、1千日を越した3度の服役をし…。その後遺症で彼は胆嚢を切除しなければならず、慢性気管支炎で苦労し、歯がボロボロになった。2000年には脳出血で倒れ、右半身マヒとなり苦労し、最近は肝機能の悪化により入院治療を受けてきた。

‘野蛮の時代’に対抗した強力な‘戦士’、‘意識化の教師’となったが、リ・ヨンヒは持って生まれた闘士型または‘陰気な意識化の元凶’では決してなかった。“雑音に耐える能力はその人の知的水準と反比例する”という英国の格言まで引用するほどに雑音に耐えられず、行動の節制を美徳とした彼は、自身が小心者であるとしてこうも語った。“私はムン・イクファン牧師のようにロマン主義者になれず、勇気もない。ただし、冷徹な現実感覚で判断し行動する人であるから。”(<対話>)彼を閉じ込めた者たちを恐怖に震わせ、彼自身を一生涯苦痛の中に追い詰めた怪物は‘真実’だった。

‘条件反射のウサギ’を書いたのは、リ・ヨンヒが<合同通信>外信部長だったか、軍部独裁・学院弾圧反対‘64人知識人宣言’に加担し既に報道機関から2回目の強制解職にあった時だ。その2年前の1969年に彼はベトナム戦争と国軍派兵に対する批判的記事を書いたという理由で<朝鮮日報>外信部長の席から追い出された。その5年前の1964年には第2次アジア・アフリカ会議(非同盟グループ)が韓国、北韓を同時招請し、国連同時加入の可能性を討議するという特ダネを書き‘国家機密を漏洩した利敵行為’(反共法違反)で1審で懲役1年に執行猶予を宣告された。
1961年にはクーデターで執権した朴正熙‘国家再建最高会議’議長の初の米国訪問に随行記者として行き、途中で本国へ早期召還された。やはり特ダネ報道のためだった。他の報道機関らが朴正熙-ケネディ会談で米国が軍事援助も経済援助も行ない、クーデターに対する政治的承認もすることにしたという‘朴正熙外交の大成果’を宣伝していた時、リ・ヨンヒはケネディ側が早急な民政委譲と軍の原隊復帰、早急な韓-日国交正常化、ベトナム事態協力などを要求したという‘驚くべき’内容を打電した。その記事が出た後すぐに‘随行取材中断、直ちに帰国’という緊急電報が本社から飛んできた。

彼はそのように水平線の向こうから押し寄せる波を誰よりも先に見て、それがまもなく巨大な津波となって近づくだろうという事実とそれが意味する真実を人々に知らせた‘罪’により苦痛にあった。

“文を書く私の唯一の目的は、真実を追求するという唯一それだけに始まり、それに終わる。 …書くということは偶像に挑戦する理性の行為だ。それはいつでもどこでも苦痛を耐え忍ばなければならなかった。過去も、今も、これからも、永遠にそうであるだろうと考える。ところが、その苦しさなしでは人間の解放と幸福、社会の進歩と光栄はありえない。”(<偶像と理性>)

彼は自身がしてきたことを“永らく迷信のように韓国社会で信じられてきた‘虚偽’と大小様々な政治的・思想的偶像の仮面を剥がすこと”と語り、‘リ・ヨンヒ著作集’最後の第12巻<21世紀 朝の思索>(2006年),50余年にわたる自身の研究と執筆生活の最後の仕上げだったその本でも語った。“私はヒューマニストです。人道主義者、そして平和主義者、付け加えるならば偶像破壊者!”そうだ、彼は強力な偶像破壊者であり、真実が彼の唯一の武器だった。

リ・ヨンヒの精神的弟子であることを自任するある学者が、2006年季刊誌に‘リ・ヨンヒ教授の功罪を問い直す’としてリ・ヨンヒ批判を載せ、ある有力中央日刊紙が“彼が残した非体系的な人本的社会主義、私たちの社会を市場盲・北漢盲にした”というタイトルをつけ大きく扱った。その文は‘直観的’社会主義者リ・ヨンヒが、資本主義偶像の代わりに社会主義偶像をたてたとし、“粗野で図式的な彼の人本的社会主義は、市場盲と北漢盲を胚胎しながら、私たちの時代を啓蒙すると同時に迷夢に陥らせた。リ・ヨンヒは結局、冷戦反共主義が圧殺した不幸な時代の子供”だったと主張した。

政権再奪還を叫んだ勢力の理念・アカ追い込みが真っ最中だった時期に出てきた新自由主義の臭いが漂うその批判に対し、それこそが滑稽な‘リ・ヨンヒ崇拝’だと皮肉ったカン・ジュンマン全北大教授は、リ・ヨンヒが社会主義体制崩壊以後 誰よりも先に、そして積極的に社会主義の失敗を話題として悩みながら人々に時代変化にともなう思考の転換を促してきた事実を指摘し“リ・ヨンヒは思想の恩師というよりは省察の代父”で、“左右を跳び越える私たちの大切な知的財産”と評価した。ホン・ユンギ東国大教授は、リ・ヨンヒが市場体制の矛盾と苦痛を執拗に批判し告発したが、社会主義者ではないとして、彼を“批判的啓蒙の先導者”と位置づけた。ホン教授は“ボルテールにマルクスになれなかった批判すれば公正な批判だろうか?”と反問し、‘市場の失敗’に目をとじたそのような批判こそ贋物社会科学ではないかと逆批判した。

真実を語ったという理由だけで‘アカ’となり監獄に行かなければならなかった厳酷な時期に彼らはどこにいたのか? そして今日50%に達する非正規職が象徴する両極化を招いた新自由主義‘市場盲’と、対応無策の強硬対応で一貫している‘北漢盲’が、なぜリ・ヨンヒのせいだというのか。リ・ヨンヒこそ利己的な米国資本主義が招く破局的‘市場盲’を警戒しろと警告してきたのではないか。そして‘粗野で図式的な’反共冷戦主義の‘北漢盲’とそれが招く悲劇を警告しながら代案を力説してきたではないか。批判者らこそ迷夢からやっとの思いで取り出した啓蒙を、再び迷夢に陥らせている‘冷戦反共主義が圧殺した不幸な時代の子供’らだという逆批判に彼らはどのように答えるだろうか。

リ・ヨンヒは資本主義に社会主義要素を加味した社会民主主義体制が“現実的に欠陥と弱点がなくはないが、それでも人類社会の現発展段階では最もより良く、社会主義のない米国式体制よりは優れていると確信”し、南北統一も南の市場経済と北の社会主義を半々に導入する“体制収斂的統一”、非核・中立化の共同体的東北アジア平和体制を解決法として提示した。

2006年のインタビューの時、リ・ヨンヒは「米国が将来、東北アジアで強大になる中国とかつてソ連に対してそうしたように戦争をしようとするのは明らかな事実だ。米国としてはそのために日本の軍事大国化が必要で、韓国はそれに‘0.5軍事国家’として付け加えようとしている。特に強大国として振る舞った日本の過去に対する郷愁は極めて強い。現在のこういう東北アジア状況は1930年代初めととても似ている」という峻烈な情勢認識と共に、彼らに同調する国内既得権勢力の支配欲を批判した。従ってマッカーサーは好きでないと言ったように、最後の瞬間まで彼の精神は休むことを知らなかった。

ハン・スンドン先任記者 sdhan@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/452180.html 訳J.S