原文入力:2010-10-26午後08:40:00(1761字)
ナム・ジョンヨン記者、イ・ジョンチャン記者
←日本 泉南地域の在日韓国人家族 石綿被害者として‘石綿肺症’を病んでいる岡田陽子氏が26日午後、ソウル、鍾路区、東崇洞のソウル大保健大学院講堂で開かれた環境保健市民センター創立記念国際シンポジウムに参加し、いつも携帯していなければならない携帯用酸素ボンベを見せている。 イ・ジョンチャン先任記者 rhee@hani.co.kr
18才で日本へ連れられてきたお父さん
石綿工場で働き肺癌で死亡
婦人・娘に闘病の苦痛が続き
‘泉南石綿被害市民の会’
"在日朝鮮人に被害集中"
日本政府を相手に賠償訴訟
岡田陽子(54)は常に酸素ボンベをキャリアに入れて引っ張って歩く。日本、大阪からソウルに来る飛行機でも酸素ボンベを離さなかった。2006年‘石綿肺症’の診断を受けた後、酸素ボンベは彼女の永遠のパートナーになった。
岡田は環境保健市民センターが26日‘アジアの環境保健’を主題に準備した国際シンポジウムで自身の家族史を証言した。
岡田の父親は‘カン・ジェヒ’という名前の韓国人だ。全北、群山で生まれた父親は18才だった1943年に日本へ渡ってきた。岡田は「日本軍に連れられてきたという父親は敗戦記念日特集放送を見る度にいきなり怒ったりした」と回想した。
父親は日本人の母親と出会い恋におちた。妻の実家の反対の中で1954年に結婚した二人は、金を稼ぐために大阪南部 泉南に居を定めた。零細な石綿工場300ヶ所余りが蜂の巣のように路地を埋めた泉南は当時最大の石綿紡績産業地帯だった。父も母も石綿工場に出て行った。
岡田は毎朝、母親の背負われ石綿工場についていった。工場には石綿肺症と肺癌を誘発する1級発ガン物質である石綿の塵埃が舞っていた。彼女は「母親は慎ましい私を毎日のように背に負って仕事をした」と話した。
この時期のために家族の人生は根こそぎ変わった。1970~80年代、日本社会で石綿の危険性が警告され始め、家族は‘時限爆弾’を抱いて暮らすという事実を悟った。家族は努めて恐怖を無視したが、恐怖は一つ二つと現実となり現れ始めた。
1986年頃 「息が半分ぐらいしかできない」という母親は石綿肺症と続発性気管支炎の判定を受けた。1990年、健康診断で精密検査の勧誘を受けた父は恐ろしくて検診を受けずにいた。結局、父親は1994年に肺癌の診断を受け翌年 空しく亡くなった。
予定された悲劇は岡田にも差しせまってきた。せきと痰が激しくなり、2006年医師は‘肺を囲む膜が固まり、一人では息をすることができない’とし、酸素ボンベを与えた。その年の11月、看護師の仕事を辞めなければならなかった。
岡田とともに訪韓した松島加奈(66・韓国名 ハン・コジャ)も10才の時から泉南で仕事をし、今も石綿肺症を病んでいる。松島は「路地で同胞の子供たちによく会うほど泉南には韓国人がたくさん暮らしていた」と話した。解放直後、祖父と祖母、叔母らは韓国に帰ったが、松島の母親だけが日本に残った。その時、一緒に行けなかったことが悲劇の種となった。彼女は「一度も会うことが出来ない叔母たちに会いたい」と涙声で話した。彼の母親の名前は‘パク・ハクス’で、故郷は慶南、金海郡、金海邑、三政洞だ。
柚岡一禎‘泉南石綿被害市民の会’代表は「植民地時代の強制徴用者たちが大部分 大阪に居を定め、被害が在日韓国人に集中した」とし「当時、保健調査を行うなど石綿の危険性を知りながらも措置を取らなかった日本政府が責任を負わなければならない」と主張した。
岡田と松島は泉南地域の日本人石綿被害者たちと共に、日本政府に賠償を要求する訴訟を行った。去る5月、一部勝訴判決を勝ち取ったが「労働者に対する国家賠償だけが可能だ」という但し書きがついた。労働者ではなかった岡田は控訴した状態だ。
ナム・ジョンヨン記者 fandg@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/environment/445693.html 訳J.S