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日帝徴用 真相調査に立ち上がった日本,地方自治体‘新鮮な衝撃’

原文入力:2010-08-09午後10:52:56(2455字)
[庚戌国恥100年新しい100年]
①地方自治体が立ち上がり市民が動いた






←東川町で朝鮮人強制連行を調査する市民団体会員たちが夕方に集まり会議を行っている。中央正面に見える人が近藤伸生弁護士。

北海道東川町
暗い過去史を明らかにする
市民‘掘る会’活動 参加
地域広報紙にも内容載せ
東川町は日本の北海道中部にある小さな地方自治体だ。町は市や村のような基礎行政単位の一つだ。住民数が7800人弱のこの地方自治体は‘写真の村’ということを大々的に掲げている。自らを知らせるための方案として1985年に写真の村宣言式を行い、国際写真展を開催した。人気がとても高い甲子園高等学校野球大会をまね1994年から高校生対象で‘写真甲子園’大会も開いている。2つとも日本を代表する写真行事に位置づけられる。

昨年10月、東川町は全く別のことで言論の照明を浴びた。自治体幹部職員が韓国へ出張に行き、強制動員真相究明委(現在の強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会)を訪問し、日帝時にこの地域に連行され強制使役をした生存者たちを訪ねて行き面談調査を行ったのだ。これは日本の風変わりな政治・社会的風土では一つの事件と見なされた。なぜなら強制連行の被害者や遺族を訪ね歩いて調査や支援活動を行うことは市民団体や研究者の専有物であって、公共機関が立ち上がった例がなかったためだ。

林万里(55)企画総務課長は韓国人生存者たちを探し、会いに行き内心では相当な覚悟をしていた。だが、強制動員被害者たちが暖かく迎えてくれ韓国人の人間性を見直したと語った。林課長が聞いた当時の状況は非常に厳酷だった。真冬でも宿舎の屋根や壁に開いた穴から雪や冷たい風が入ってきて非常に寒く、食事量が足りず常に空腹だったと言った。棍棒で殴られない日がなかったようだという証言も聞いた。林課長の出張が言論を通じて知らされるや、右翼団体らの是非電話がかかってきた。公費を使って出張に行った意図は何なのか、国民の税金をそうしたことに使ってもかまわないのか、と問い詰めたのだ。右翼団体らは強制連行や動員の事実さえ否定する。朝鮮人が自ら日本に金を儲けにきたとか‘日本帝国の国民’として義務を果たしたに過ぎないとゴリ押し主張する。

←東川町事務所が発行する広報紙に載せられた朝鮮人強制連行調査活動

東川町の林課長派遣は暗い過去史を直視しようとしない日本当局の消極的姿勢を知っている専門家たちの間では画期的試みと評価された。だが、実質的には地域の市民団体が韓国へ調査に行くのに同行する形式となった。市民団体が行政当局を動かし強制動員調査のための出張の第一歩を踏み出すようにしたのだ。この団体の名前は‘江卸発電所・忠別川遊水池 朝鮮人強制連行の歴史を掘る会’(略称‘掘る会’)だ。

会の歴史は長くはない。スタートして2年ちょっとなので数十年の活動歴史を持つ他の地域団体とは比較にならない。東川町にも朝鮮人強制連行犠牲者がいたという証言があるので調査をしてみようという趣旨から集まった。会員も町議会議員、歴史教師、平和憲法を守る9条の会会員、引退した年金生活者など十人足らずだ。浅い歴史と少数会員の団体ではあるが、‘掘る会’は新しい方式で接近しようとした。

←日本,忠別川地図

これらは何よりも官を調査活動に引き込まなければなければならないと考えた。60~70年前の暗い過去を心の奥深くにじっと隠している老人たちが口を開けるよう雰囲気を作るには、官が肯定的態度を持っているということが分かるようにしなければならなかった。韓国の強制動員真相究明委調査団が昨年7月この地域を訪問するという計画が知らされ、‘掘る会’は調査団と共に共同報告会形式でセミナーを開いた。その場に松岡市郎町長が出てくれるよう招請した。

また、町役場が毎月出している広報紙<ひがしかわ>に共同報告会の内容を載せ、当時の朝鮮人労働者の労働状況や生活像を調査していると知らせた。会の会長である近藤伸生(54)弁護士は<ひがしかわ> 2010年7月号に朝鮮人強制動員被害調査に関する報告を連載し始めた。住民たちに配付される広報紙は在外居住者に郵送するものまで含めて4000部程度になる。規模の大きくない地域社会で広報紙の影響力は侮れない。朝鮮人強制連行に関する内容を読んで証言する老人たちが少数ながら出てきもした。

‘掘る会’が活動期間は長くないにも関わらず反響を起こしているのは近藤会長の努力に力づけられたことが大きい。官庁の広報紙利用について彼は「誤ったことを載せろというのではなく、事実を明らかにしようということなのだから正々堂々と自信を持って推進した方が良い」と話した。
近藤会長の履歴は変わっている。元々はTVカメラ記者だった。TV放送会社などを相手に映像ニュースを売る‘日本電波ニュース’という会社で働いていた。1950年代に保守勢力の逆風でNHK,東映などから追い出された進歩的記者らを中心に60年に作られた映像物通信社だ。そのような背景があってベトナム戦争当時、西側報道機関としては初めてハノイに支局を開設した。

彼はこの会社に入社しイスラエルのレバノン侵攻、フィリピンのマルコス政権崩壊などを取材し、アフリカの苛酷な飢餓問題を扱う特集を作ることもした。だが、第3世界取材をしながら一種の風土病にかかり、健康を害したために33才の時に辞め、司法試験の勉強をし第2の人生を始めた。昨年末には3ヶ月間ソウルで語学研修もした。
東川/文・写真 キム・ヒョスン論説委員 hyoskim@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/434329.html 訳J.S