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発砲命令 誰が? 30年目 解決されない‘隠蔽された真実’

原文入力:2010-05-18午後06:52:00(1928字)
‘5・18’抗争30周年
"上部命令なかった 正当防衛で誰かが発砲"
5・18団体 "保安司・特戦司 秘線組織(非公式組織)を通じて通達されただろう"

アン・クァノク記者

←ハ・ソンフプ画家の絵<1980年5月21日>、この作品は戒厳軍の集団発砲が始まる直前の1980年5月21日正午に光州市、東区、錦南路1街 全一ビルディング前で空輸部隊と市民学生が対立した状況を生き生きと描いた。

1980年5月21日午後1時、光州都心の全南道庁前広場。道庁拡声器から愛国歌が鳴り響くや、怒った市民らに押されるばかりだった戒厳軍が無差別集団発砲を始めた。近隣建物屋上からも狙撃兵らが照準鏡を付けたまま市民に射撃した。射撃はメガホンで中止命令が下されるまで10分余り続いた。この日の発砲で54人が亡くなり500人余りが負傷した。この事件は光州市民たちが銃を取るに至る決定的契機となった。

誰が発砲を命令したのか。当時、全南道庁前には11空輸61・62・63大隊、7空輸35大隊が配置されていた。戒厳軍は市民がアジア自動車から引っ張って来た装甲車に押され阻止線が錦南路3街商業銀行から錦南路1街全一ビルディングへ200mほど押されるや実弾を軍人らに配った。

平時の銃器使用は緊急時でも陸軍参謀総長の承認を受けなければならないほど厳格に統制されている。一ヶ月前、舍北事態に投入された11空輸もこういう指針を受けた。光州状況が緊迫したが2軍司令部は20日夜10時30分、発砲禁止と実弾統制を指示した状態だった。だが、空輸部隊はこれを破り実弾を配り発砲した。この集団発砲後7時間半が過ぎた21日夕8時30分、戒厳司ははじめて全南・北戒厳分所に自衛権発動を命令した。

この日の発砲状況は11空輸と7空輸の‘作戦詳報’に入っていない。そのため1989年国会5・18特別委聴聞会、1995年検察の5・18捜査、2007年国防部過去史委の調査でも発砲命令者を選び出すことができなかった。指揮体系が二元化されチョン・ホヨン特戦司令官側から発砲命令が下されてきたのだろうという推定があったが、‘証拠’は出てこなかった。

聴聞会に出席した軍人らは 「上部の発砲命令はなく、現場指揮官らも発砲命令をしなかった」とし「正当防衛次元で誰かが先に発砲を始めた」と主張した。国防部と保安司はこの聴聞会を控え答弁シナリオを組み出席証人らの動向を監視するなど組織的に備えた。この過程で陸軍の総長指示事項(5.3~6.29)と光州駐留505保安部隊報告書などの記録が隠蔽された。

このように誰にも集団発砲の責任を問うことはできない苦しい状況が30年間続いている。当時の状況を証言するキム・ジェミョン陸本作戦参謀部長、ユン・フンジョン,ソ・ジュンニョル陸軍戦闘兵科教育司令官(戦教司令官),ジョン・ウン31師団長などはすでに故人となった。この事件を調査した国防部過去史委も全南道庁前発砲を直接命令した文書の発見や発砲命令系統を説明する陳述を確保できなかった。軍内部の一部資料が未だ軍事機密として接近が制限されたために自衛権発動が新軍部の上層部で討議された情況を知っただけで、発砲命令を下した事実や人は確認できなかった。

先立って大法院も1997年5・18事件判決文を通じ、全斗煥保安司令官とチョン・ホヨン特戦司令官が自衛権保有闡明や自衛権発動決定に関与したという証拠を捜し出すことができなかったと明らかにした。全斗煥保安司令官が背後で自衛権保有を明らかにする談話文を発表するよう指示・関与したことを認めただけだ。

しかし5・18団体関連者らは実弾発砲が特戦司令部または保安司の非公式組織を通じ光州現場の指揮官らに下された可能性が大きいと見ている。ホ・ヨンシク5・18団体統合推進委企画委員は「当時、空輸部隊が指揮系統から抜け出したソウルのチョン・ホヨン特戦司令官に発砲命令を建議したのだろう。集団発砲がなされたのと同じ時刻に全南大と朝鮮大などでも空輸部隊の銃撃で被害者がでた点から推測し、特戦司令部と保安司の非公式組織が関与した可能性が高い」と話した。光州抗争30年になった今でも、こういう考えは依然として可能性のある‘推定’に過ぎず、‘証拠’で裏付けられてはいない。

光州/アン・クァノク記者 okahn@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/421318.html 訳J.S