原文入力:2010-05-17午後10:05:16(1755字)
[‘5・18’抗争 30周年] 市民軍イ・チュンヨン氏のその後
チョン・デハ記者
←30年前のその日、1980年5月16日光州の学生と市民2万人余りが全南道庁前広場に集まり民族民主化大成会を開いている。噴水台を中心に学生と市民が徐々に集まり始め、最後には5万人以上に増えた。5・18記念財団提供
←イ・チュンヨン(49・蔚山)K漢方医院院長)氏
韓医大辞退後、市民軍へ
弁護士の父も抗争参加
糾明運動後に復学・開業
"間違ったことではないことを話さなければ"
銃声が闇を切り裂いた。軍靴の音が大きくなり、すぐに下水口の下に隠れた。だが「下水口に手榴弾 投げて見ろ」という声に驚き「助けてくれ」と叫び外に這い出た。戒厳軍らはズボンを脱がせ帯剣を突きつけた。ひざまずき座るとすぐに袋叩きにされた。80年5月27日未明4時頃、光州市、東区、鶏林洞、鶏林小学校前の陸橋付近で当時、慶煕大韓医大生だったイ・チュンヨン(49・蔚山K漢方医院院長)氏は市民軍の‘2分隊6番小銃手 暴徒’と分類された。
79年10・26以後、自主退学し光州にきた彼は5月初めから全南大生らの間に入りデモ隊列に合流した。5月26日夜、市民軍状況室があった旧全南道庁に入ったイ氏は翌日明け方 "非常事態だ" という叫び声を聞いた。5月27日未明3時頃、旧全南道庁入口でカービン1丁と実弾30発を支給された彼は市民軍14人とトラックに乗り鶏林小学校側に移動した。銃声が起き、あちこちから悲鳴が聞こえた。彼は戒厳軍に向け引き金を引いたが遊底が作動しなかった。
"その時、父も道庁にいらっしゃるとは考えもしなかったんですよ。" 後でイ氏は軍の営倉で偶然に父の逮捕の知らせを伝え聞き驚いた。父親 故イ・ジョンギ(1917~1997)弁護士は、73年に大統領名誉毀損と戒厳法違反で懲役6月を宣告され弁護士資格が停止された状態だった。収拾対策委員会臨時委員長を引き受けもしたイ弁護士は、5月26日戒厳軍の強制鎮圧を防ぐため16人の人々が行った‘死の行進’に参加した。イ弁護士は5月26日夜、家で入浴し服を着替えた後、夫人に "今度は出れば死んで帰ってくるかも知れない" と言って家を出た。
←5・18光州民主抗争史跡(※クリックすればさらに大きく見ることができます)
"年配の方々の内、道庁で市民軍と最後の夜を共に過ごした方はイ・ジョンギ弁護士が唯一でしょう。" 市民軍機動打撃隊7組長キム・テチャン(48・当時 石工)氏は5月26日夜11時30分頃、道庁2階の農林局長室のドアをあけて入ってきた‘老紳士’(イ弁護士)をはっきりと記憶している。この老紳士は‘若い人々が死んでいくのに歳をとった私が家に居られるか? 君らと一緒にいようと思って来たよ’と話した後、銃をベッドの下に押込んだ。翌日明け方、戒厳軍に対抗し銃を撃ち抵抗し、追われて入ってきたキム氏など幼い市民軍たちにイ弁護士は 「生きて後世に知らせなければならない。抵抗するな」と説得し命を守らせた。捕われたキム氏の背中には‘極烈分子’と書かれ、イ弁護士も逮捕され軍の営倉に連行された。
子息のイ氏は80年10月、軍法会議で懲役3年を宣告された後、刑執行免除で出所した。だが、世間は彼に沈黙を強要した。イ氏は「見た事実を言うことのできない苦しさを解きたくて」 89年まで光州の真実を明らかにする運動に力を注いだ。彼は96年、慶煕大韓医大に再入学し2002年に漢方医院を開業した。イ氏はこの頃、鍼と灸、灸の壺など単純な道具で健康が回復するのを見る面白味で生きている。彼は 「その時は不当な国家暴力に対し市民が銃を取り‘そうじゃない’と話した」とし「今はロウソクのあかりと投票用紙ででも‘そうじゃない’と話さなければならない時代ではないでしょうか」と尋ねた。
光州/チョン・デハ記者 daeha@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/421249.html 訳J.S