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参加するという健康なファン心理にとどまらず中傷メール爆弾を浴びせる敵対的ファンダムは、政治がまともに作動していないことの反作用だ。政治学者のパク・サンフン(元国会未来研究院研究委員)は、「ファンダムは大衆にこびる政治、嫌悪を悪用する政治の副産物」だと語る。このようなファンダムは、味方でなければ敵、すなわち打倒の対象と規定し、はばかることなく堂々と嫌悪と排除をはじめる。だから政治家に顔色をうかがわせるとともに、「悪い政治」を強化する反すうとして作用する。
相手を殺すかのように争う嫌悪の政治は社会を引き裂き、互いに共同体の構成員であるかどうかを疑わなければならないまでに至っている。大統領が仕事ができなければ野党がとても喜び、野党が困難に陥れば大統領と与党が大きな拍手をする。選挙ではこれといった政策提示や討論もなく、ひたすら政争ばかりが横行する政治が、国民にとって利益になるはずがない。政治がこのような有様の時に最も被害を受けるのは、自らを守ってくれる学閥も財産も地位も持たない中下層民だ。
南北分断があるのに内部の分断を我慢することまではできないというのなら、行動しなければならない。囲碁に勝つ平凡な原理は、「妙手」ではなく「定石」を打ち続けることだという。市民がなしうる行動は、面倒であっても会って話し合うことだ。開かれた技術で社会問題を解決する社会的協同組合「パティ」のファン・ヒョンスク理事は、「対話はすべての問題を解決する黄金のカギではないが、対話なくしてはいかなる問題も解決できない」と述べる。「通渉(物事に広く通ずること。互いに行き来すること)」の科学者チェ・ジェチョン(梨花女子大学碩座教授)は「インターネット空間で自分の感情を排泄する前に、また街頭に飛び出す前に、人と人とが車座になって話し合えば、ここまで『地獄のような社会』に住まなくても済むと思うのです」と述べる。私たちは会うだけで多くのわだかまりが解けることを経験的に知っている。ドイツの有力週刊誌「ディー・ツァイト」が開催する対話プログラム「ドイツが語る」でイスラム移住民問題を討論したある参加者は、普段は色眼鏡で見ていた相手が単なる平凡な隣人だということに気づいた時に感じたことを、次のように語っている。「『ペギーダ(反イスラム政治組織)の怪物』や、それよりも悪いものを想像していました。その代わりにその場には、心優しくて温かくてユーモラスな女性が自転車を引いて丘を登ってきました。…私たちは同じような視点で世界を見つめ、説明できたんです」
面倒で異なっていても会って対話すべき
「対話は対立を解く黄金のカギではないが
対話なしにはいかなる問題も解決できない」
このような出会いと対話は、「どのように」なされるかがカギだ。総合編成チャンネルなどに常に出てくる「バトル」だけが討論ではない。相手を論理と話術で制圧する討論が必要な場もあるが、それは対話の一部に過ぎない。財団法人「ワグル」のイ・ジンスン代表は「私たちは誤ったコミュニケーション構造の中にいる。コミュニケーションを勝者と敗者の構図としてみている」と述べつつ、勝たなければならない対話ではなく、傾聴し配慮し合う対話の必要性を強調する。実際に尊重し傾聴し合う対話を実践した人たちは、影響し合って考えが広がったり高揚したりするという経験をしたと証言する。このようなあり方の対話を拡張すれば、年金改革や少子化対策のような政治的、社会的議題について共感と合意を作りあげていく討議も可能になるだろう。チェ・ジェチョンが提案する「熟論」、すなわち「誰が正しいかを決めるのではなく、何が正しいかを共に探っていく過程」もこのような討論であるはずだ。
政治が絶えず敵対と憎悪の毒気を発散しているのに、市民が変われば済むことだと主張するのは無理がある。まず政治家が変わるべきだ。それでも、政治と社会を改善する市民の力と役割も明らかに存在する。パク・サンフンは、「違いや差異が疑いや憎悪、敵対を産むか、それとももう少し多様で豊かな意見のあふれる多元社会を作るかは、私たちの選択にかかっている」、「違っていても安全で、遅くても道に迷わず、落ち着いていて優しくても遅れていると感じない民主主義が私たちには必要だ」と語る。
より多くの出会いと対話こそ不信感、敵対、嫌悪に勝つことができる。面倒でも、考え方が違っても、会って「共同の言語」を広げていく対話が切実に求められている。