陸軍士官学校が独立戦争の英雄、洪範図(ホン・ボムド)、池青天(チ・チョンチョン)、李範ソク(イ・ボムソク)、金佐鎮(キム・ジャジン)の各将軍と李会栄(イ・フェヨン)先生、大韓帝国軍の朴昇煥(パク・スンファン)参領(当時の軍の階級、現在の少佐)の胸像を校庭から撤去または移転すると発表したことで、「国軍の起源」に関心が集まっている。陸軍士官学校の精神的基礎は光復軍や独立軍にあるとし、新興武官学校を「陸軍士官学校のルーツ」だとする前政権とは異なり、現政権が陸軍士官学校は国防警備士官学校がそのルーツだと主張し、洪将軍らの胸像の移転・撤去の根拠にしているためだ。
国防警備士官学校は米軍政時代に日本軍や満州軍の出身者を中心として作られたものであり、陸軍士官学校は韓国国軍のうち最初に創設された陸軍の将校を養成する機関だ。これについて光復会のイ・ジョンチャン会長は9月15日、「日帝の使用人をしていた人々が国軍の元祖だと言っている現実が嘆かわしい」と批判した。
陸軍は1948年から1979年にかけて30年以上、歴代の陸軍参謀総長がすべて日本軍あるいは満州軍の出身者だった。海軍と空軍はどうだろうか。
海軍はソン・ウォニル提督のように西洋、中国、日本の商船に乗っていた航海士、機関士、通信士などの主導で創設された。日本海軍が朝鮮人を受け入れなかったため、日本海軍で経歴を積んだ者はいなかった。そのため海軍の歴代の参謀総長には日本軍、満州軍の出身者が1人もいない。よって海軍将校たちは「クリーン海軍」と呼ぶ。
空軍の創立過程は「日帝の使用人」と「クリーン」の中間とでも言うべきハイブリッド(混合)だ。
空軍はチェ・ヨンドク、イ・ヨンム、チャン・ドクチャン、パク・ポムジプ、キム・ジョンニョル、イ・グンソク、キム・ヨンファンを「空軍創設7人幹部」と呼ぶ。この7人の出身は光復軍・中国軍(チェ・ヨンドク)、日本軍(パク・ポムジプ、キム・ジョンニョル、イ・グンソク、キム・ヨンファン)、中国軍(イ・ヨンム)、日本の民間航空機の操縦士(チャン・ドクチャン)だ。混じり合うことが困難な全く異なる背景を持つ人々が、空軍創設のために集ったのだ。「共通点を求め、違いは脇に置く」、すなわち求同存異であった。
7人を率いた座長は「空軍の父」と呼ばれるチェ・ヨンドク将軍(1898~1969)だった。チェ将軍は日帝に抗して武装独立闘争を繰り広げた独立運動家だった。チェ将軍を含めた空軍創設を願う7人は毎週土曜日、キム・ジョンニョルのソウル敦岩洞(トナムドン)の自宅に集まった。キム・ジョンニョルが金持ちの長男で、裕福だったからだ。初期の航空関係者に、敦岩洞のキム・ジョンニョルの家で一度もご馳走になっていない者はいなかったという。
彼らは米軍政に朝鮮警備隊航空部隊の創設を要請した。1948年、米軍政は航空部隊創設の条件として、朝鮮警備隊歩兵学校に二等兵の身分で入校し、教育を受けることを彼らに要求した。米軍政は、チェ・ヨンドク将軍ら国内の航空界の指導者らが日本軍航空隊や中国空軍の出身者であるため、彼らの軍での経歴は認められないとし、基礎軍事訓練を改めて受けるよう指示したのだった。
ベテラン操縦士だった彼らは、このような米軍政の要求は屈辱だと憤った。中国空軍の大領(大佐)だったチェ・ヨンドク将軍は当時50歳だった。キム・ジョンニョルは日本の陸軍士官学校を出て、第2次大戦では日本軍の戦闘機隊の中隊長を務めていた。
しかし、最も先輩だったチェ・ヨンドク将軍は後輩たちをこのように説得した。
「我々が500人あまりの航空関係者を指導する立場で、このような米軍政当局の提案を受け入れ、航空部隊が創設さえされるのなら、一兵卒だから何だというのだ。李舜臣(イ・スンシン)将軍の白衣従軍(一兵卒として従軍すること)精神をきちんと理解すれば、我々が二等兵として入隊することにも意味があるのではないか」
7人は1948年4月、朝鮮警備隊歩兵学校での教育を終えた。大韓民国政府樹立翌日の1948年8月16日、チェ・ヨンドク将軍は国防部次官に任命された。チェ・ヨンドク将軍は国軍を新たに組織する際、国軍組織法の附則に「陸軍に属する航空兵は、必要な時には独立した空軍に組織できる」という条項を入れ、空軍創設の根拠を作った。
大韓民国空軍は1949年10月1日に創設された。10月1日は国軍の日であり、空軍の創設記念日だ。政府樹立からわずか1年で陸軍から独立して空軍が創設されたのは、当時の国内外の状況を考えれば奇跡のようなものだ。世界最強の米空軍も1947年9月に米陸軍から分離独立している。1947年まで米空軍は米陸軍航空隊であり、陸軍の一部だった。
50歳で訓練兵として改めて入隊したチェ・ヨンドク将軍の白衣従軍が、素早い空軍創設の堅固な基礎となったのだ。チェ・ヨンドク将軍が自分の戦歴を盾に訓練兵としての入所を拒否した者たちを説得していなかったら、大韓民国空軍の陸軍からの独立は1960年代後半か1970年代ごろになっていただろう。
チェ・ヨンドク将軍は1956年、空軍中将として退役した。その後、逓信部長官と駐中国大使を務め、1969年8月15日の光復節に永眠した。部下の世話をし70歳まで借家生活を送った彼は、亡くなる前の財産は孫娘に牛乳を買い与えて残ったつり銭240ウォンだけだったという。
チェ・ヨンドク将軍は生前、空軍の後輩たちに「我々の生きる場所も空であり、我々の死ぬ場所も空であり、我々の仕事場も空だ」と語っていた。彼は臨終の数日前、空軍の後輩たちに「私が死んだら死に装束の代わりに空軍服を着せてほしい」と遺言した。
解放後、日本軍出身者が国軍創設を主導したのは事実だが、国軍にいたのは日本軍出身者だけではない。海軍は日本軍出身者のいない「クリーン海軍」であり、空軍は光復軍出身者と日本軍出身者が力を合わせて作った。空軍は2019年9月19日、キム・ジョンニョル将軍の敦岩洞の自宅跡に「大韓民国空軍創設発祥の地」という銅板を刻み、和合と団結の模範を示した先輩たちの精神を称えた。