戦後初の南北当局会談の合意文書である1972年7・4南北共同声明の交渉と採択などに関する南北会談史料が6日、一般公開された。
統一部は同日、「1971年11月から1979年2月までの政治分野の南北会談文書2冊(1678ページ)を国民に公開する」と発表した。7・4共同声明をめぐる南北対話は、当事者の回顧録と米国政府の外交文書公開でかなり明らかになったが、政府の公式な会談史料が公開されたのは今回が初めて。しかし、7・4南北共同声明関連協議の前後に行われた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領とパク・ソンチョル北朝鮮第2副首相、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)首相とイ・フラク中央情報部長との会談に関する対話録は今回も公開されなかった。この日公開された会談文書のリストと閲覧手続きは、南北会談本部のホームページで確認できる。
南北会談の原型
会談資料には、南北首脳の指針に従った非公開の実務・高官級接触→非公開の相互訪問→公式会談の順で進められる南北当局会談の一つ目の「原型」が現れている。当時、南北高官級対話の糸口となったのは、1971年11月に南北赤十字予備会談代表として参加したチョン・ホンジン中央情報部協議調整局長とキム・ドクヒョン労働党中央委組織担当責任指導員の接触だった。北側のキム責任指導員は秘密接触で、「最も高いところ(最高指導者)が信頼する人々が秘密接触」(1971年11月20日)を行い、「(その場合は)労働党と民主共和党(当時の韓国の与党)の党幹部級にするのが良いと思う」(1971年12月10日)と提案した。これに対し、南側のチョン協議調整局長は「こちら(の高官級)はイ・フラク中央情報部長、そちらはキム・ヨンジュ労働党組織指導部長(にした方が良い)」(1972年3月7日5回目の接触)と北側の提案に応えた。
二つ目の原型は「非政治的な」議題と「政治軍事的な」議題の並行協議方式だ。当初、南側は「(離散家族の再会など)交流協力」を起点にすることを目指したが、北側は「政治軍事」を優先すべきだと主張した。南北は結局、「非政治的な会議体」の赤十字会談と、政治と軍事を含む高官級総合会議体の「南北調節委員会」を同時に並行して稼動する方向を定めた。これは1990年代の高官級会談と2000年代の閣僚級会談で援用された方式だ。
首脳会談を急ぐ北側、それを避けたい南側
北側のキム組織指導部長は1972年5月3日、南側のイ中央情報部長との平壌会談で、「(金日成)総秘同志と朴(正煕)大統領の交渉を早く進めよう」とし、「屋根を葺いてから内部美粧(インテリア)をしよう」と提案したが、イ部長は「環境づくりがより重要だ」とし、「基礎を固めてから家を建てよう」と主張した。結局、南北首脳会談は行われなかった。南北は金日成首相とイ・フラク中央情報部長の平壌(ピョンヤン)会談(1972年5月3日、11月3日)、朴正煕大統領とパク・ソンチョル第2副首相のソウル会談(1972年5月31日、12月1日)を通じた「間接的な首脳対話」を行うのに止まった。
対話するが、認めない
会談史料を見ると、7・4南北共同声明の合意主体が公式国号と肩書の表記もなく「互いに上部の意向を承り、イ・フラク、キム・ヨンジュ」に決まった事情がうかがえる。当初、北側は「朴正煕大統領の委任によって」「金日成首相の委任によって」と書かれた合意草案を示したが、南側が「むしろ問題を難しくする恐れがある」とし、「上司の意思を承り」という文言を修正することを提案し、「上部の意思を承り」に最終確定した。「高官たちとの協議過程で強硬な反対にあい、(イ・フラク)部長が非常に難しい立場」という南側のチョン局長の伝言(1972年6月25日)は、権力内部に軋轢があったことを示唆する。
統一準備を前面に掲げた分断独裁の永久化
7・4南北共同声明の発表直後、朴正煕大統領は「維新憲法」という名のもとで、金日成首相は「主席制への改憲」で、「分断独裁の永久化」に突き進んだ。会談史料は「敵対的共生」の一断面を示している。南側のチョン局長は1972年10月17日、「大統領の重大宣言」があると、発表前日に北側のキム責任指導員に知らせており、発表直後には「大統領特別宣言」の全文を渡した。キム責任指導員も労働党中央委第5期第5回全員会議(1972年10月23~26日)で、「(主席制)改憲などについて討議した」と、チョン局長に知らせた(1972年10月31日)。