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[梨泰院惨事]梨泰院で亡くなった後にリリースされた歌…「もうそこには戻らない」

登録:2023-01-06 09:27 修正:2023-01-06 11:40
[ごめん、忘れないよ]梨泰院犠牲者の物語|チェ・ユジン 
「アキ」と呼ばれたかった22歳の多才な歌手 
母親「溶け落ちてしまった心臓を掴んで耐える」 
友人が「アキ」の2曲目を先月リリース
チェ・ユジンさん(22)=イラスト/クォン・ミンジ//ハンギョレ新聞社

<梨泰院(イテウォン)惨事の犠牲者と遺族の物語をシリーズで掲載します。ハンギョレと「ハンギョレ21」は、私たちが守るべきだった一人ひとりの人生がどれほど大切か、それが消え去った家族の人生はどうなったのか、遺族が知りたい真実とは何なのかを記録する予定です。>

ごめん、忘れないよ//ハンギョレ新聞社

 「ユジン、あなたが決めなさい」。チェ・ユジンが小学校に入学して以来、母親のソ・ミジョンさん(50)はずっとそう言い続けてきた。ミジョンさんは、2000年11月13日に生まれた一人娘がどんなことにも縛られず、好きなように生きることを望んだ。ミジョンさんの望み通り、ユジンは積極的でしっかりした子に育った。いつだったかユジンはこんなことを言った。「小さい頃はお母さんが何でも自分で決めなさいといつも言うから、すごく大変だった。でも今考えてみると本当に役に立ったの。何でも自分で考えて決められるようになったと思う」

バイオリンを弾くユジンさん=遺族提供//ハンギョレ新聞社

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遊びも勉強もできる「万能キャラ」

 済州島(チェジュド)にある国際学校ノース・ロンドン・カレッジエイト・スクール(NLCS)済州に通い、ユジンは音楽に関心を持ち始めた。バイオリンを習い、国際公認音楽資格試験(ABRSM)で最高等級まで取った。校内オーケストラの首席を務め、2年間チームを率いた。遊びも勉強もできるユジンを、友達は「万能キャラ」と呼んだ。「自分がやり遂げたいことは絶対にやり遂げる性格でした。ユジンさんはいろいろな面で多才な人でした」。 ユジンの国際学校の後輩であり、親しい仲のイ・ソヌさん(20)の言葉だ。裏表なく率直なユジンは、友達に愛されていた。

 「私のことをよく知る人たちは私について説明する時、『大胆だ』とか『ほかの人とは違う』と言います」。ユジンが米国のニューヨーク大学に志願する際に書いた、自分を説明する入試エッセイの最初の一文だ。2018年冬、ユジンはニューヨーク大学の中でも入学が難しいとされるティッシュ(Tisch)芸術学部に早期選考で合格した。新型コロナの余波でオンライン授業を受けていたある日、ユジンがふと言った。「お母さん、私、作詞作曲を本格的にやってみたい。歌も歌いたい」

 ユジンはソウルの龍山区梨泰院でレコーディング室を探したいと話した。復学する前に1年だけ独立してみたい、とも。釜山(プサン)にいたミジョンさんは心配が先立ったが、娘の決断を常に尊重してきたので承諾した。ユジンは梨泰院のレコーディング室兼住居で暮らし始めた。音楽監督の仕事のため家族と離れソウルに住んでいる父親の家が漢南洞(ハンナムドン)にあったため、幼い頃からユジンは梨泰院が好きだった。

 曲を準備しながら、芸名を「アキ」(AKI)と名付けた。「お母さん、アーキテクチャー(Architecture)という言葉があるでしょ。何か新しいものを作って創造するって感じがいいんだ。日本語で『アキ』は秋という意味なんだって。私もお母さんも一番好きな季節が秋。いいでしょ?」2022年5月、アキの最初の曲「LOVE ME RIGHT」が生まれた。

済州国際学校の朝礼の時間にチェ・ユジンさんを追悼している=遺族提供//ハンギョレ新聞社

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いつも先頭に立っていたユジン

 ミジョンさんの携帯電話に、ユジンは「いつも良い子の娘」という名で保存されている。2022年10月29日午後4時、ミジョンさんはユジンに「宅配便を受け取った?」とカカオトークのメッセージを送った。前日、冬服や栄養剤、風邪薬などをまとめて送った。「お母さん、宅配便はいつも発送した日の2日後に届くみたい。届いたらちゃんといただくよ」

 その夜、梨泰院の家にいたユジンは午後9時50分頃、普段からよく行っていた飲食店に行こうと15年来の友人と一緒に梨泰院ハミルトンホテルの裏通りに向かった。世界食べ物通りに入ると、人が多すぎて前に進むことができなかった。ユジンは午後10時11分に親しい先輩のヤン・ユビンさん(27)に、10時12分にはソヌさんにカカオトークのメッセージを送った。ユジンと友人は飲食店に行くのをあきらめて再び大通りに出ようとした。ハミルトンホテルの隣の路地に入ると、人はさらに増えた。いつも先頭に立って解決していくのを好んだユジンは、その日も友達の前に立った。

 釜山にいたミジョンさんは、夜遅くにテレビのニュースを見て惨事を知った。父親のチェ・ジョンジュさん(54)に電話をかけた。父親はすぐにユジンのレコーディング室に行ったが、ユジンはいなかった。連絡が取れなかった。ミジョンさんはユジンと親しいソヌさんに連絡した。ソヌさんも惨事のニュースを聞いて不安に思っていたところだった。午後10時12分以後、ユジンのカカオトークのメッセージ欄には「未読」を意味する数字の「1」が消えずに残っていた。

 ソヌさんは午前12時過ぎに梨泰院に向かった。現場は修羅場だった。警察官も消防士も、誰もユジンの行方を知る人はいなかった。父は近くの順天郷大学病院に行き、とにかく待っていた。ちょうどユジンと一緒に梨泰院を訪れた友人と連絡がついた。順天郷大学病院で会ったその友人は「気を失った後、正気に戻ってみたらユジンがいなかった」と話した。午後10時50分頃、ユジンの携帯電話に電話がかかってきて、10秒ほどつながった記録だけが残っていた。

 翌午前2時頃、ミジョンさんの携帯電話が鳴った。夫だった。「ミジョン、ユジンが…」。 ソウルの病院で見たユジンは、とても痩せていた。骨ばった手を握って冷たい顔を触りながら、ミジョンさんは思った。早く休ませてあげたい。その瞬間から葬式まで、ミジョンさんの記憶は途絶えている。頭の中には一つの考えばかりが繰り返された。午後10時50分までユジンは生きていたんじゃないか。少しでも早く病院に行けたら助かったのではないか。

2番目の曲「航路離脱」の写真=遺族提供//ハンギョレ新聞社

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国から受けられなかった慰めをくれた人々

 葬儀が終わった後、国の対応を見てミジョンさんは翻弄されていると感じた。ユジンの納骨堂に向かっていたある日、運転していた車の前に他の車が無理やり割り込んで威嚇したことがあった。一瞬、こんな考えが頭に浮かんだ。「死んでも未練はない。いっそぶつかって死んでしまおうか。ユジンの元へ行こうか」。国家トラウマセンターに電話をかけた。警察から送られてきたショートメールに、センターの担当者の名前と電話番号があった。センターからは「そのような担当者はいません。探してからまた連絡します」という答えが返ってきただけだった。丸一日過ぎるまで連絡は来なかった。

 惨事後、警察から先に連絡が来たのは一度だけだ。あるメディアが遺族の同意なしに犠牲者名簿を公開した時だ。措置したければ連絡してほしいというショートメールだった。「誰でも(公開)してくれるならむしろ感謝しなきゃならないんじゃないか。会って慰め合える遺族を探せるなら…」

 国から受けることのできなかった慰めを、他の人々が満たしてくれた。ユジンが通っていた済州国際学校では、冬休み前の最後の朝礼の時間にユジンの歌を流した。先生と生徒たちが追悼の手紙を書いて家族に送ってくれた。音楽室の端にユジンの名前をつけた部屋を設けた。ニューヨーク大学からは、知らせてもいないのに先に連絡が来て、ユジンを悼む追悼行事をしたいと言った。

 ソヌさんは発売できなかったユジンの歌を思い出した。両親に代わって、ソヌさんが自ら流通会社に電話した。自費でユジンの2曲目を世に送り出した。そうして2022年12月5日、「Off Course(航路離脱)」が発売された。現在まで生きてきた人生を後にし、自分だけの新しい道を探していくという内容を込めた歌詞は、こんなふうに始まる。「私はもうそこには戻らない」

 あの日以来、ミジョンさんが生きなければならない理由はただ一つ。ユジンが愛した、ユジンを愛した人々を守ることだ。「ユジンが愛した人たちを守れるように、お母さんは溶け落ちてしまった心臓をしっかり掴んで頑張ってみるよ。耐えていくよ。いつも良い子だった娘、ユジン。ゆっくり休んで」

母親のソ・ミジョンさんの手紙//ハンギョレ新聞社
リュ・ソグ|「ハンギョレ21」記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1074315.html韓国語原文入力:2023-01-05 18:01
訳C.M

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